ローマ7:7-13 『ローマ19 宗教に勝る福音の力』 2017/11/05 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙7:7~13
7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
先週はチャーチライフサンデーのため、メッセージがありませんでしたが、白雪さんの証を聞くことができたのは良かったですね。
今日からローマ人への働きのメッセージに戻ります。
ここしばらくの話には、一つのテーマがあったことを覚えているでしょうか?
それは、「私たちはもう律法の下になく、恵みの下にある。」ということです。
律法はかつて私たちを縛り、束縛してきました。
でもイエス様が十字架にかかって、私たちをあがなって下さった。
だからもう、私たちは自由なんだ。
私たちは恵みの中に生きているんだ。
その事を、色々な例えを通して3週に渡ってお話ししてきたわけです。
でもそうすると、私たちの中にはこのような疑問が浮かんでくるのではないでしょうか?
「それでは、律法とはつまり、悪いものなのではないか」という事です。
実際にパウロの言葉の中には、『律法は罪の力の源だ』というような話もありました。
そして、律法が私たちを死に至らせると言うなら、律法なんてない方が良いんじゃないかと思う方もいるかもしれません。
そこでパウロは、そのような誤解を解くためにこの様に言っています。
『それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。(ローマ7:7)』
神様がモーセを通して律法を与えたのは、罪の力を高めるためではもちろんありません。
イエス様も、『私は律法を廃止するために来たのではない。』と言っていますよね。
では、律法とは何なのでしょう?
神様は何のために、律法を与えたのでしょうか?
パウロはこの様に続けています。
『ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)』
つまり律法とは、私たちの中に罪があることを知るためにあるのだということです。
律法は、イスラエルの人々が神様との正しい関係にあるなら、どのように行動するかという事が示されたものです。
ところが、それを実践しようとすると、すぐにわかってくることがあります。
それは、律法を守ることがどれほど難しいかという事です。
私たちは神様との正しい関係の中にないのだから、当然のことですね。
つまり律法が示されたことによって、『私たちは神様との正しい関係にない罪人なのだ』ということがわかるわけです。
律法はそもそも、そういう目的のために与えられていたわけですね。
ところが、律法によって明らかにされるのはそれだけではありません。
パウロはこの様に話を続けています。
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
何が起こったのかと言うと、律法が与えらえたことによって、罪に対する誘惑も大きくなってしまったという事です。
律法が『むさぼってはならない』と言えば、私たちの中にある『むさぼりたい』という衝動と向き合う事になり、『むさぼりたい』という思いはどんどん大きくなっていきます。
ダメと言われれば言われる程やりたくなってしまう衝動が、私たちの中にはあります。
それは、律法が悪いという事でしょうか?
そうではありませんね。
悪いのは律法ではなく、私たちの中にある罪です。
律法は、私たちに正しい方向を示しているだけなのに、私たちの中には、それに背きたい、それを破りたいという思いがどんどん大きくなっていきます。
これが、律法を土台とした信仰の問題点です。
罪人である私たちには、律法主義は機能しないどころか、私たちをますます罪に向けてしまう事になってしまうのです。
私たち人間が作る“宗教”というものは、すべてこのような律法主義の原理によって成り立っています。
何をしなければならないか、何をしてはならないかという戒めの世界ですね。
様々な規律や戒律が課せられていて、それを守らなければなりません。
それが宗教の世界です。
多くの日本人は無宗教だと言われますが、その社会はやはり倫理や道徳、常識を律法とする律法主義の原理で成り立っています。
倫理や道徳、常識は悪いものではないはずですが、それは私たちの心を縛ってストレスを生み出し、人々はそれを解消するために隠れて罪を犯してしまうのです。
そういう意味では、日本人は宗教が嫌いだと言いつつ、その文化はとても宗教的ですね。
通勤の電車の中や、就活に行く学生の姿を見ていると、それを強く感じます。
それでは、私たちはどうでしょう?
「キリスト教はそうではありません!」と、言いたいのはやまやまなのですが、残念ながらキリスト教の中にも、このような律法主義の原理があります。
礼拝に出席しなければならない、献金しなければならない、伝道しなければならない、奉仕をしなければならい。
律法になった途端に、全ての中から喜びが失われます。
それでは、他の宗教と何の変りもありません。
多くの人たちが言うように、宗教何て結局どれでも同じだという話になってしまうのではないでしょうか?
重ねて言いますが、律法そのものが悪いのではありません。
それがどれだけ正しいものであったとしても、私たちが罪人なので、「あるべき」「なすべき」という価値観は私たちを正しい方向に向かわせないのです。
では、私たちはどうすればいいのでしょう?
それは、私たちが与えられている恵みの原理である福音に立ち返ることです。
私たちは、自分の行いや正しさによって救いを勝ち取るのではない。
それが私たちにとっての最大の希望です。
誰も律法を全うする事ができないという所に目を向けると、それは何と絶望的な状況でしょう。
しかし、たとえ私たちに可能性がなくても、神様にはあります。
神様が私たちのために救い主を送り、神のひとり子であるイエス様が十字架にかかった時、私たちには救いの道が開かれたのです。
私たちの正しさ、私たちの行いによってではなく、神様が愛によって救いの道を拓いてくださった。
それが、福音です。
その福音を信じるという事は、どういうことですか?
それは、私たちがもう、自分の正しさにより頼む律法を放棄するということです。
そして、神様が救って下さったことの喜びの中で生きるという事なのです。
行いがなければ、正しさがなければ救われないから、愛されないから、喜ばれないからと強迫観念で行動することはもうありません。
私たちはもうすでに救われ、愛され、喜ばれているのです。
そしてだからこそ、私たちは神様が命じていることに従いたいと思えます。
なぜなら、神様が私たちに命じていることは、私たちを幸せにし、他の人たちを幸せにすることだと私たちは確信をもって言えるからです。
その時になって、律法は初めて私たちの指針となりえます。
そして私たちは、心からの喜びをもって行動する事ができるのです。
今、自分自身の信仰を顧みて下さい。
私たちは、律法主義を土台とした行いの信仰になっていないでしょうか?
恵みの信仰に、より頼んでいるでしょうか?
私たちの中に平安がなく、どこか義務感や強迫観念で生きようとしているなら、もしかしたらそれは、神様の救いを信頼していない状態になっているのかもしれません。
全てを神様に委ねようではありませんか?
そこに産まれる平安が、より多くの人たちへの励ましとなりますように。