ローマ9:30-10:9 『ローマ28 救いのために必要なたったふたつのこと』 2018/01/29 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙9:30~10:9
9:30 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。
10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
10:4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
10:5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
10:8 では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ人への手紙には、パウロが本当に伝えたかったいくつかのテーマがありますが、その中でもっとも大きなポイントとなるのは、『救い』についてです。
パウロは手紙の最初から、時には同じような話を繰り返しながら、時には話が行ったり来たりしながら、この『救い』について何度も触れています。
ローマの教会では、長い間ちゃんとした教師がいない状態にありましたから、信仰の最も重要な部分である『救い』に関して、混乱が起こってしまっていたのかもしれません。
では、教師がいれば大丈夫なのか?
他の教会ではそんな問題はないかと言うと、残念ながらそういう訳でもありません。
実は現代の教会でも、牧師や教師となる人がいながら、もっとも重要な『救い』に関して混乱が起こってしまっていることもあります。
だからパウロはこのローマ人に宛てた手紙の中で、『救い』についてしつこいまで詳細に書き記す必要を感じていたのです。
だから僕も、しつこいまでに『救い』について今日もお話しします。(笑)
「もういいよ、わかってるよ。」と思う人もいるかも知れませんが、でもやっぱり大切なことなのです。
今日、このお話を聞く中で救いの確信のない方は、救いを受け取ることができるように。
また、既に救いについてよくわかっているという人にとっては、皆さんが誰かに福音を伝えるためのヒントをぜひ見つけられたらいいなぁと思っています。
さてみなさんは、どうすれば私たちは救われると思っていますか?
世界にある宗教のほとんどは、「宗教的な規律や戒律を守り、修行をつむことによって救われる」と教えています。
仏教も、ユダヤ教もイスラム教も、すべてこのような考え方ですね。
それではあまり宗教を信じていない人たちはどのように考えているかと言うと、「まじめに、正直に、一生懸命に生きていれば救われる」と考えている人が大半です。
日本人を含め、現代先進国に生きている人たちの多くの人たちはこのように考えている傾向があります。
『救い』についての考え方には、宗教的な人と無宗教的な人の間には共通点があります。
それは、どちらも「自分の行いや行動」が救いの条件になっているということです。
救いについていろいろな考え方があるようでいて、私たちの根本的な考え方あまり変わらないものなのです。
さてパウロは、ローマ人への手紙の中で、イスラエルが神様に救いの民として選ばれたこと、しかし多くの人々は神様の救いから離れ、結局は異邦人たちがどんどん救われることになったことを書いてきました。
選びは神様による、しかしそれを受け取るかどうかは私たちにかかっているということを先週お話ししましたね。
イスラエルの人々が救いから外れてしまった原因を、パウロはこのように話しています。
9:30 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
彼らの問題は何だったでしょう?
パウロはこの様に書いています。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
彼らは不真面目だったのでも、熱心さが足りなかったのでもありませんでした。
むしろ彼らは、私たちなんかよりもずっとまじめで、熱心な人たちでした。
彼らの問題は、神様について、そして救いについて、正しい知識を持っていなかったということだったのです。
どこか目的地に行こうとする時、地図が間違っていたらそこに辿り着く事はできません。
正しい地図を持っていたとしても、地図の見方が間違っていたら、やはり目的地にたどりつくことはできません。
私たちがどれだけ熱心に救いを求めていても、間違った知識に基づいていたら、私たちは間違った方法で救いを求める事になってしまうのです。
では、どうすればいいのでしょうか?
パウロはこの様に言っています。
10:4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
イスラエルの人々は、律法という正しい地図を持っていました。
しかし、それを自力で守ろうとする間違った方法で救いを受けようとしていました。
神様が与えた律法が指し示しているのは、すべてキリストです。
キリストを信じる信仰こそが、救いへと至る正しい道なのです。
10:5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
救いを受けるために、私たちには何が必要なのでしょう?
私たちは、神様に届くため天に上るようなわざを行う必要はありません。
また、深みに下るような苦行を積む必要もありません。
イエス様が、私たちのために天から地上に降りてきて、私たちのために命を投げ出し、黄泉に下って下さったのです。
私たちに求められているのは、自分の行いによって自分を救おうとするのではなく、イエス様がして下さった行いを、ただ信仰を持って受け取ることです。
信仰を持って受け取るとはどういうことなのか、パウロはこの様な言葉で表しています。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
これがタイトルにあった、救いのために必要なふたつのことですね。
救いのために必要なふたつのこと、それは「心で信じること」と、「口で告白すること」です。
私たちは信じ始めた時、それが本当の信仰となっているのかどうかが一番悩む部分ではないかと思うんです。
信仰は、神様と自分との関係ですが、信仰と言えるものが本当にそこにあるのかどうか、自分ではあまりよくわからなかったりするんですよね。
そんなに早く生き方が変わるわけではないし、クリスチャンらしい生き方が何なのかもまだよくわからない。
自分が救われているのかどうか、どうやって知ることができるのか?
それは、「イエスを主と口で告白すること」だと、パウロは言っているのです。
「イエス様が主である」ということは、イエス様が神様であると認め、イエス様に従って生きるということです。
それを口で告白することができるなら、あなたはもう救いを受け取っています。
聖霊が心の内に働いているのでなければ、それはできないことだからだと、パウロは別の手紙で書いていますね。
Iコリント 12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
そして口で告白してみると、心もどんどんそれについていくものです。
それがさらに、行動にも表れるようになっていくでしょう。
皆さんの中で、「自分が救われているかどうかわからない」と感じられている方がいらっしゃったら、口で告白してみてはどうでしょうか?
救いに必要なことは全て、もうイエス様がして下さっているのですから。
私たちはただ、それを信じて受け取ればいいのです。
最後に、申命記の中にあるこの言葉をみんなで読んで、このメッセージを終わりたいと思います。
申命記 30:14 まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。