ローマ10:9-15 『ローマ29 御名を呼び求める者』 2018/02/4 小西孝蔵
「御名を呼び求める者」
―ローマ人への手紙10章9-15節-
2018年2月4日
10:9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 10:11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 10:12ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 10:13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。 10:14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 10:15遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
10:9 That if thou shalt confess with thy mouth the Lord Jesus, and shalt believe in thine heart that God hath raised him from the dead, thou shalt be saved.
10:10 For with the heart man believeth unto righteousness; and with the mouth confession is made unto salvation.
10:11 For the scripture saith, Whosoever believeth on him shall not be ashamed.
10:12 For there is no difference between the Jew and the Greek: for the same Lord over all is rich unto all that call upon him.
10:13 For whosoever shall call upon the name of the Lord shall be saved.
10:14 How then shall they call on him in whom they have not believed? and how shall they believe in him of whom they have not heard? and how shall they hear without a preacher?
10:15 And how shall they preach, except they be sent? as it is written, How beautiful are the feet of them that preach the gospel of peace, and bring glad tidings of good things!
1.初めに
新約聖書の中で異邦人という言葉が100回使われていますが、そのうち、約7割が、使徒行伝とパウロの書簡で引用されています。毎週ローマ書を学んでいる私たちにとって、なじみにある言葉ですが、日本人には、およそなじみのない言葉です。ところで、久保田早紀さんという歌手が歌った、昔のヒット曲「異邦人」をご存知の方、どれぐらいいらっしゃいますか?あまりいらっしゃらない?皆さん、お若い証拠ですね。(笑い)
つい最近、NHK・Eテレ「人生レシピ」の番組で、久保田早紀、本名「久米小百合」)さんが出演された番組を見ました。久米小百合さんは、1979年当時、シルクロードのイメージで作詞、作曲した「異邦人」という曲が数か月で150万部のヒットチャート第1位を記録し、一躍アイドル歌手になったのです。彼女は、その後、5年間で、引退、挫折し、人生に希望を見出せなくなっていました。そんな時、昔友達に教会に誘われて、讃美歌に親しんだことを想いだし、教会に戻って、受洗しました。また、ゴスペルシンガーの小坂忠さんに出会って、人の魂に響く歌の大切さを教えられました。彼女は、その後、音楽宣教師としてデビューし、音楽を通じて、伝道活動を開始し、東日本大震災の被災地にも音楽で希望を与えました。
いまだに、「異邦人」という曲をリクエストされるそうですが、久米さんは、異邦人のように周りから疎外されていた自分がイエス様に出会って救われました。そして、その喜びによって、神様から与えられた音楽の賜物を活用し、福音を伝える伝道師になったそうです。今日のメッセージ箇所にも後で関係しますので、ご紹介させていただきました。
さて、先週は、健太郎先生から、ユダヤ人が、律法による義、人間の義を追い求めて、神を拒否した一方、異邦人は、信仰による義、神の義を得たということ、そして、すべての人に示されている、救いのために必要なたった二つのことについて学びました。先生は、「しつこいまでに救いについてお話します。わかっているよという人がいるかもしれないけれども大切なことですから」と仰いました。今日の箇所は、前回と重なる部分があって、しつこいと思われるかもしれませんが、先生のその言葉は、そのまま頂戴して、また、救いのお話をしたいと思います。(笑い)
2.信ずること、口で告白すること
ローマ書10:9「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
ユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人にとっての救いの条件として、パウロは、口でイエスを告白することと、復活の主を信じることとの二つを挙げています。救いの条件は、たった、これだけなのです。
比叡山の天台宗の修行に、有名な千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)という大変厳しい修行があります。朝、2時に寺を出て、お経を唱えながら、一日平均30キロ歩いて寺をまわり、7年間で1000日の山歩きを行う。途中で行を続けられなくなったら、自害するよう短剣と埋葬料も常時持ち歩いているそうです。それを聞いただけで、身震いしてしまいます。自分には、とてもできません。あるテレビ番組でタレントさんがこの修行に同行して30分でギブアップしてしまったのが放映されていました。自害のことは全く話題になりませんでしたが・・・。(笑い)それに比べ、新約聖書でいう救いの教えは何とシンプルなことでしょう。
ローマ書10節に戻ります。心に信じて義とされ、口で告白して救われるとあります。ここで注目したいのは、これまでパウロは、一貫して、信仰による義、十字架による贖いと甦られたキリストを信じることによって救われることを何回も語ってきました。ここでは、何故、あえて、主を呼び求めることを加えているのでしょうか。
よく考えてみれば、信仰と一口にいっても、人間の心は、気まぐれで、時には、悩み苦しみ,信仰心の弱さを痛感しますし、時には、自分には,確信が与えられていると信じ込んで頑迷固陋になることもあります。私自身のことを顧みても、信仰生活がマンネリ化すると、つい、自分の我が出てきてしまい、いつの間にか、神様との関係が疎遠になってしまったり、神の座に居座っている自分に気づかされます。しかし、心に信じるとともに、口で主を告白し、主イエス様、天のお父様と呼びかけることで、私たちは、神様との親しい関係を回復することができるようになるのではないでしょうか。この神様との関係の修復は、いつも健太郎先生が繰り返し話されていることでもあります。
「主を呼び求める」ということは、丁度、子供がパパ、ママと親を呼び求めることに似ていますね。幼子にとって、弱い自分を守ってくれるのは、両親であるからこそ、常に呼び求めているのです。イエス様は、幼子のようにならなければ、天国に入ることができないと仰っています。
マタイ福音書によるにも、弟子に対して、幼子の信仰にならうことを進めています。「18:1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 18:2すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」
幼子が父母を呼び求めるように、絶えず、主を呼び求めていくことが救いの道なのです。下を向いて自分の心をあれこれ詮索するよりも、上を向いて、主を仰ぎ見ながら歩く方が最善も道なのですb。
3.主の御名を呼び求める
9節10節の「こころで信じること」と「口で告白する」という救いに必要な二つのことが、12節の「主の御名を呼び求める」ことに凝縮されています。この言葉をもう少し深く考えてみましょう。
10:12「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 10:13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」
13節は、ヨエル書からの引用です。「2:32すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。」
私が、学生の頃、キリスト教同志会という寮に3年間お世話になっていた時、小西芳之助牧師が毎週一回、学生にメッセージをしてくれました。小西先生は、奈良県の仏教徒の家に育ち、敬虔な仏教徒でしたが、寮に入って、キリスト教に触れ、白山教会の宣教師のバイブルクラスに出席し、内村鑑三のローマ書講義にも参加しているうちに、キリスト信徒になりました。先生は、毎回、詩吟の節回しでこういう歌を寮生に繰り返し、披露してくれました。
「主エスと呼びて励まん、今日もまた、手に来るわざを御国めざして」
この歌は、毎週1回聞いておりましたので、3年間で100回くらいは聞いているはずで、耳たこですね。ここで、節回しをつけてご披露してもいいのですが、皆さんがびっくりすると思いますので、やめます。(笑い)
先生は、奈良の出身で、もともと信じていた浄土真宗の親鸞、法然、源信そして彼らに影響を与えた中国の善導大師を尊敬しており、仏のみ名を唱える「称名」の南無阿弥陀仏に変えて、「イエス」の御名を唱えるようになったといわれました。余談ですが、善導大師は、9世紀の長安にいて浄土集を始めた高僧と言われていますが、その頃の長安では、シルクロードを通じて、キリスト教が伝わり、景教が盛んだったので、あるいは、その影響を受けていたのかもしれません。
わたしも、最近では、小西先生にならって、毎朝、起きてから、外に出て、天を仰ぎ、「主よ、感謝します」7回、口で唱えるようにしています。先週、中国語では、「カンシェ・ツー」という言葉だと教わりました。竜さん、それでいいでしょうか?
私たちは、仕事のプレッシャーや、職場や家庭での人間関係、健康状態などで、心は揺れ動きます。神様を信じていると思っても、艱難にぶち当たると吹き飛ばされそうになって、うろたえてしまう弱い存在です。ローマ書8章でも学びましたが、どう祈ったらいいのか、わからないうめきしか出せない時もあります。「主よ、助けてください」「主よ、感謝します」と祈り求めることはできます。その時には、既に、聖霊がそばにいて執り成しをしていてくださり、復活された主がそばにおられるので、御手の中で守られているのです。
少しだけ戻りますが、ローマ書10章11節では、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」とありますが、ここで引用されているイザヤ書28章では、「28:16それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。とされています。
主の御名を呼び求めるものは、既に主がそばにいてくださるから、あわてることはないのです。人生に大地震のような事態が起きてもパニックになって慌てふためく必要はないはずです。
4.御名を宣べ伝える
次に、13節の「御名を呼び求めること」から、14節以下の「御名を宣べ伝えること」に移りたいと思います。
ローマ書「10:14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 10:15遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
15節は、イザヤ書52章の引用です。
「52:7よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。」
ちなみに、この箇所は、ヘンデルのメサイアの第2部ハレルヤコーラスの少し前に歌われる歌詞でもあります。
パウロの救いの論理はこうです。主を呼び求めるものは救われるということですが、そのためには、信じることが必要、信じることができるためには、聞くことが必要、聞くことができるためには 、宣べ伝えることが必要、宣べ伝えることができるためには、遣わされなくなくてはならないということです。
考えてみると、主を呼び求める者は救われるというメッセージは、ユダヤ人には、申命記、ヨエル書、イザヤ書といった旧約聖書において既に明らかにされています。しかし、ユダヤ人は、そのこころの頑なさによって、イエスを殺し、パウロを迫害し、神様を拒否したのです。パウロは、愛する同胞が神に反抗していることに心を痛める一方、恵みによって救われた喜びをまだ、福音を聞いたことがない異邦人に宣べ伝えることに福音宣教の使命を見出したのです。
パウロは、異邦人に、イエスのみ名を伝える器として神様に選ばれました。ローマ書1章16節で、御名を宣べ伝えることについてこういっています。「私は、福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人にも信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言っています。
また、ローマ書15章では、
「15:19また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。 15:20このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝える」
と述べて、異邦人への福音宣教の使命を熱く語っています。
私たちも、十字架の贖いによる罪の赦しと救いの喜び、復活の希望を本当に実感するとき、パウロのように、また、冒頭でご紹介した久米小百合さんのように、福音のよき知らせを、家族や友人、同胞に宣べ伝えたくなるはずです。私たちは、神様からそれぞれ違った賜物を与えられています。音楽の賜物、教師の賜物、看護や介護の賜物、ビジネスの賜物、コミュニケーションの賜物、・・・・。自分に与えられたその賜物を死蔵することのないよう、また、私物化することのないよう、その賜物を用いて、愛する同胞のために、イエス様の御名を宣べ伝え、神様の栄光が現わしたいと切に願っています。
5.最後に
本日は、ローマ書10章を通じ、ユダヤ人も異邦人も区別なく、すべての人が「心で信じ、口で告白する」「主の御名を呼び求める」ことで救われる、このごく単純なことだけで神様との関係が回復されること、そして、救われた喜びをもち、各自与えられた賜物を用いて、御名を宣べ伝える使命が私たち一人ひとりに与えられていることを学びました。
これからも、日々、「主の御名を呼び求め」、「御名をほめたたえていこう」ではありませんか。最後に、次の第2テサロニケの御言葉を皆さんと一緒にお読みして、終わりたいと思います。
「常に喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなた方に望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」(2テサロニ5章16~19節)
(祈り)