ローマ12:1-2 『ローマ33 ふさわしい礼拝』 2018/03/04 松田健太郎牧師

 

ローマ人への手紙12:1~2(新改訳2017版)
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、完全であるのかを見分けるようになります。

ローマ人への手紙12:1~2(新改訳 第三版)
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなた方にお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

何度かお話ししてきていることですが、もう一度このお話をしたいと思います。
私たちが知らない場所に行こうとする時、間違った地図を持っていたら、正しい目的にたどり着くことはできません。
しかし、正しい地図を持っていたとしても、地図の見方を間違えていたら、やはり目的にたどり着くことはできないということです。

同じ聖書を読み、そこから何かを学ぼうとしていても、間違ったを受け取り方をしてしまう事があります。
ちゃんとした教師がいなかったローマの教会には、その危険性がありました。
だからパウロは、信仰の最も大切なところである、罪からの救いについて、彼らにしっかりと教えておく必要があったんですね。
誰が救われ、どのようにすれば救われるのかということの正しい理解は、私たちの信仰の土台となるものだからです。

しかし私たちは、さらにもう一歩先に進む必要があります。
教理の理解だけでは、頭の中のことでしかなく、単なる思想や教養でしかないからです。
絵に描いたモチというヤツですね。
でも、正しい聖書の理解は、神様との正しい関係に導き、私たちの人生を変えていくものでなければなりません。
そこでパウロは、長かった教理の話を終えて、ここからは実生活のことについて話しています。
今日の個所は、その切り替わりの部分ですね。
パウロはこの様に言っているんです。

ローマ 12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

礼拝とは何でしょう?
これは、当時のクリスチャンたちにとって大きな問題でした。
ユダヤ人たちにとって礼拝とは、神殿で生贄を捧げるということです。
しかし、神殿には異邦人が入る事はできません。
そしてユダヤ人たちの礼拝の場であったその神殿も、この手紙が書かれてからほどなくして、ローマ帝国によって完全に破壊されることになってしまったのです。

礼拝とは何かという質問は、現代のクリスチャンである私たちにとっても、大切な問題ではないでしょうか?
皆さんは、礼拝とはどのようなものだと思っていますか?
『日曜日の朝、教会堂に集まり、賛美歌を歌い、祈り、説教を聞くこと。』
これが現代のクリスチャンが抱く、一般的な礼拝の姿ではないでしょうか。
でも、礼拝はそういうものだという表記は、聖書の中にはどこにもありません。
このようなスタイルは紀元1世紀から2世紀の間に定着した形で、その時代の必要に応じて作られたもので、このスタイルそのものが礼拝の本質ではないのです。

では、礼拝とは何なのか?
それこそ、『私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげものとして献げる』ということです。
その後の言葉は、2017版の新改訳聖書では『あなたがたにふさわしい礼拝』と書かれていますが、今まで使っていた第三版では『霊的な礼拝』と訳されていた言葉です。
まぁ言いたいことは同じで、それこそがあるべき礼拝なのだということですね。

私たちは、自分自身を神様に喜ばれる、生きたささげものとして献げられるように整えられるため、日曜日に集まり、神様を賛美し、互いに祈り合い、メッセージを聞くのです。
整えられるために他の曜日の方がよければ他の日に集まればいいし、他に必要なことがあるなら、他のことをするべきでしょう。
どんなことに関しても、形より本質の方が大切なことなのですから。

さて、それでは自分のからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげものとして献げるとはどうする事なのでしょうか?
そして、それによって、私たちはどのようになるのでしょうか?
パウロはこの様に続けています。

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、完全であるのかを見分けるようになります。

この部分も、第三版では『心の一新によって自分を変えなさい。』という言葉になっていましたね。
でもこれは、私たちがこの世と調子を合わせず、心を新たにすることによって、神様が私たちの内に働き、『変えていただく』という方がしっくりくるような気がします。
そしてそれによって私たちは、神様のみこころをより深く知ることができるようになり、正しい事を知ることができるようになるのです。

この事を考える時、私たちは根本的に間違った方法でクリスチャンになろうとしてしまう傾向があるように思えてなりません。
私たちは、「自分が正しいと思うこと」を、「自分の判断で」で行い、「自分のやり方」で神様に仕えようとしてしまってはいないでしょうか?
でも多くの場合、その価値観の根底にあるのは、善悪の知識の木から取って食べた私たちが抱いている「私の善」に根差した正しさです。
そして私たちは、「自分の善」を基準にして他の人たちを裁き、また勝手に負い目を感じて落ち込んでしまうのです。

私たちは心を新たにして、そのような自我をささげてしまう必要があります。
そして私たちは、全て神様に聞き、従う必要があるのです。
これは、私たちが自分の努力によってできる事ではありません。
私たちの内に住んで下さる聖霊が、私たちを内側から変えて下さるのでなければ、私たちは神様に喜ばれるような器になることはできないのです。

そして、私たちがそのように、自分を神様に明け渡していくことができるように、私たちは教会に集まって、ともに神様を賛美し、互いに祈り合い、御言葉に耳を傾ける必要があるのです。
そのように考えてみると、必要なのは日曜礼拝の中で行われることだけではありません。
私たちはもっと交わりの時も大切にする必要があります。
なぜなら、私たちは話し合う中で互いの必要を知り、互いのために祈り合ったり、助け合ったり、励まし合う事ができるようになるからです。
そしてこのような交わりは、日曜日だけでなくいつでもすることができます。

聖霊が与えられたイエス様の弟子たちは、毎日集まって礼拝をしていました。

使徒 2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

そしてイエス様は、ふたりでも三人でも、イエス様の名によって集まる所にはともにいて下さると約束してくださいました。(マタイ18:20)

いつでも一緒に集まって、ともに神様を礼拝しませんか?
定められた時間、場所だけでなく、必要な時に、神様の御前に出て神様を崇めましょう。
そして、私たち自身をすべて、神様に捧げてしまおうではありませんか。
その先には、大きな喜びがまっているはずです。