ローマ12:3-8 『ローマ34 みんな違ってひとつのからだ』 2018/03/11 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙12:3~8
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
ローマ人への手紙は、12章から新しい話の展開に入りました。
1~2節では、礼拝とは何かというテーマの話でしたね。
礼拝とは、毎週日曜日に集まって賛美を歌い、メッセージを聞くこと…ではなく、私たちが自分自身のすべてを神様に捧げ、委ねて生きることでした。
私たちはそのために集まり、ともに神様を見上げ、互いに祈り合い、励まし合います。
そして、つい自分が中心になってしまう状態から心を新たにして、神様に内側から変えていただくことが大切なのです。
それでは、心を新しくして変えていただくとどのようなことが起こるのか、ということについて書かれているのが、12章3節以降の部分です。
今日の個所で話されているのは、私たちに与えられている賜物についてです。
賜物とは何でしょう?
賜物というのは、神様が私たちに与えられた特別な能力、あるいは才能のようなものです。
これは、私たちがどのような人間としてデザインされ、どのような使命や目的を与えられているかに関係しているものであり、私たちが今何をするべきかに関係しているものです。
自分にどのような賜物が与えられているかがわかってくると、自分が何をするべきなのかという事も見えてくるわけです。
皆さんはどんな賜物が与えられていると思いますか?
それがある程度わかっている人もいれば、さっぱりわからないという人もいるかもしれません。
ひとつ注意する必要があるのは、賜物というのは特技とは違うという事です。
特技は自分のために使っていいものですが、賜物はあくまでも、神様に仕えるために与えられている能力だという事です。
神様に仕えるという事は、別に教会の中で礼拝の時に使う事とは限りません。
私たちが神様の手となり足となってこの地上で何かをする時、神様が私たちをどの様に用いるかという事です。
少し考えてみて下さい。
皆さんはどのようにして人を愛したり、力になることができるでしょうか?
皆さんが当たり前のようにできる事は何でしょう?
教会はこれをしたらいいのにとか、自分だけが気づいているように感じる事はどんなことでしょうか?
そこに、与えられている賜物のヒントがあります。
例えば、子どもたちに福音を伝える必要性を感じる事。
そして、実際に子どもたちに福音を伝えてみたら子どもたちが良い反応を示し、イエス様と出会ったという事があれば、そこに賜物があるのでしょうね。
一方で、必要だと思ってやってみたけれど、うまくいかなかったという事もあります。
その場合はもしかすると、子供たちに福音を伝える事そのものが賜物なのではなく、必要を見つけ、そのミニストリーをアレンジする事が与えられている賜物なのかもしれません。
いずれにしても神様は、私たちの何かをするための情熱と、能力を与えて下さいます。
そうして私たちは、キリストの体である教会として、機能していくことができるのです。
さて、私たちが賜物について考える時に、気を付けなければならないことがあります。
それは、私たちが勝手に自分の賜物を決めつけたり、働きを限定してしまわない事です。
なぜならば、賜物は神様が私たちに与えるものであって、自分で決めるものではないからです。
神様がモーセに、エジプトのファラオを説得し、イスラエルの人々を解放するように命じられた時、モーセは自分にはそんなことは自分にはできないと言って神様に叱られました。
出エジプト 4:11 主は仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
神様は、私たちの能力に応じて仕事を与えるのではありません。
私たちに与えている使命に従って賜物を与え、必要を備えて下さるのです。
このような賜物が、自分自身を捧げ、心を新たにする時、私たちに与えられるわけです。
大切なのは、賜物は全て神様から与えられるものであって、私たちが努力で勝ち取るものではないという事です。
与えられた賜物が、訓練や経験によって磨かれていくという事はあります。
でも、その賜物自体は、恵みによって私たちに与えられているものだという事を忘れてはならないんです。
だからパウロはこの様に言っています。
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
私たちはつい、働きとかできることに注目してしまう傾向があります。
そして、「あの人にはこんな素晴らしい賛美をする」とか、「あの人のメッセージによって、これだけの人たちが信仰告白をした」と言って人を評価します。
逆に、「自分にはこの程度のことしかできない」と言って落ち込むこともあるかもしれません。
しかし大切なのは、働きの大きさや小ささではありません。
それは神様が決めていることであって、私たちの手柄ではないからです。
そうでなければ、栄光は神様ではなく、自分たちのものとなってしまうでしょう。
本当に大切なのは、私たちが神様に全く捧げ、神様が与えた使命に従って忠実に生きるという姿勢です。
なぜなら、私たちは神様の体の一部であって、自分だけのものではないからです。
パウロはこの様に言います。
12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
私たちには、それぞれに違う役割が与えらえている、キリストのからだの一部です。
全ての器官が同じ働きになってしまったら、私たちは生きていくことができないでしょう。
私たちの中には目立つ器官もあれば、全く目立たない器官もあります。
でも、目立たたないから必要がないわけではありません。
それがなければ生きていくことができない器官がたくさんあります。
腎臓が「たまには私も人前に出たい」と言って出てきたら大変なことになるでしょう?
私たちは、それぞれが自分に与えられている賜物を見つけ、それに忠実に生きる必要があるのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
私たちに与えられている賜物は何でしょうか?
それがどのようなものであっても、私たちは喜んでそれを行おうではありませんか。