ローマ15:1-7 『ローマ40 キリストの忍耐による慰めそして一致』 2018/04/22 小西孝蔵

ローマ人への手紙第15章1~7節
「15:1私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。 15:2私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。 15:3キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。 15:4昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。 15:5どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 15:6それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
15:7こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」

1.初めに
これまで、1年近く、ローマ書を皆さんとご一緒に学んできましたが、大きく区切りますと、1~11章までが信仰と救いの問題について、12章から14章までが、いわば、信仰の実践、キリスト信徒の道徳について、パウロが語っています。先週、健太郎先生のメッセージで取り上げられた箇所では、ユダヤ人と異邦人の間で当時大きな対立点となっていた食べ物の宗教上の問題を通して、愛と思いやり、そして信仰によってお互いに受け入れ合うことが大切であるということを学びました。
本日の箇所は、前回の箇所を受けながら、12章から14章までを総括するようなところです。パウロは、信仰の実践として、キリストが私たちを愛して下さったように、お互いに愛し合いなさい、私たちも互いに受け入れなさいというのが結論です。しかし、一体、どのようにしたら、それができるようになるのか、信仰とその実践の関係というのが今日の大切なテーマです。「キリストによる忍耐と慰め、そして希望」というタイトルをつけて見ましたが、15章の1~7節を順に読んでいきましょう。

2.キリストによる忍耐と慰め

冒頭の2節「15:1私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。 15:2私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
この箇所は、食べ物のような問題で人をさばくのではなく、その動機である、愛と信仰をもって互いに受け入れなさいという、先週の箇所を受けたところです。

次の3節では、「15:3キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。」
この節の引用箇所は、詩篇69篇9節です。
(詩篇)「69:9あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだからです。」
詩篇69篇は、キリストの受難について預言している詩篇で、21節の次の言葉も、各福音書でも十字架上の苦しみの預言として、引用されている箇所です。
パウロは、隣人を愛するには、十字架に付けられ、復活されたキリストを仰ぎ見、キリストと主に歩む以外には道がないことを改めて強調しています。

次の4節では、「15:4昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」
ここでいう「聖書」とは、旧約聖書のことです。 旧約聖書の与える忍耐と励ましとはどういうものでしょうか。旧約聖書の「忍耐」というとすぐにヨブのことを思い出しますが、預言者たちは、キリストのことを指し示しています。有名な個所は、イザヤ書53章に描かれた苦難の僕キリストの姿です。これを引用しているのが、ペテロ第1の手紙2章にあります。

(ペテロ第1の手紙) 「 2:21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 2:22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

キリストによる忍耐は、同時に慰めも与えてくれます。
ローマ人への手紙15章の4節に戻りますと、「15:4昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」

新改訳聖書では、この「励まし」と訳されていますが、口語訳、共同訳では、「慰め」と訳されています。「励まし」でもいいのですが、「慰め」の方が、よりぴったりすると思います。欽定訳では、“Comfort”,ないし”Consolation”となっています。ギリシャ語では、「パラカイオー」というそうです。「パラ」とは、側にいるという意味で、聖霊は、そばにいる者として「パラクレートス」と訳されていいます。英語の「パラレル(並行)」はここからきています。「カイオー」とは、呼ぶという意味で、英語で”call”に当たる言葉だそうです。即ち、「そばにおいで」と声をかけてくださるという意味なのです。
苦難の時、試練の時、どうしていいかわからないとき、あまりに辛くて逃げだしたいとき、そんなときが、皆さんそれぞれの人生にあることでしょう。特に、若い方々には、職場や人間関係が試練になっていると思います。愛する人を亡くされた方の痛みや身近に死が迫っているお年寄りへの恐れはいかほどのことでしょう。肉体的、精神的にある方は、それ自身が大きな苦しみであることでしょう。そんな時、既に苦難や試練を耐え忍ばれた、イエス様が「そばにおいで」と声をかけてくださる、というのは、何という慰めでしょうか。キリストの体験された忍耐と慰めによって、私たちも苦難を耐え忍び、慰めを得ることができるのです。

この慰めという言葉は、パウロの書簡、第2コリント1章で何回も引用しています。

(第2コリント)「 1:4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 1:5それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」

忍耐と慰めの先には、希望があります。15章4節「それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」とある通りです。
忍耐と希望については、既に学んだローマ書5章において、このように記されています。

(ローマ書)「5:3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 5:4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 5:5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

希望は、キリストと共に与かる復活の希望です。それは、主が再び来られる再臨の希望でもあります。

3.主に在って一つ

本日の聖書箇所の最後になります。

(ローマ書)「15:6それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。15:7こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」

ユダヤ人も異邦人も、その違いに係わらす、主に在って、一つになる、お互いに受け入れなさいとの勧めです。ローマの教会に見られた両者の対立と和解は、今日の私たちの教会や社会でも同じように当てはまる真理です。
「主に在る一致」は、どのようにして可能なのか、パウロの結論は、キリストとともにある「忍耐と慰め」があるからこそ、お互いに受け入れ合い、一致することができるのです。内輪で対立していては、外に働きかける力も削がれてしまいます。パウロにとって、異邦人への伝道をしていく中で、主に在る信徒の一致が不可欠でした。
ただ主の憐れみによって、意見の相違はあっても、主に在って一つとの思いを共有することができるのは、本当に感謝すべきことです。そして、私たちは、教会の中にととどまらず、自分の家庭、職場、学校、地域などの場所においても、常に、キリストから「忍耐と慰め」をいただきながら、祈りつつ、隣人に対して愛と和解の実践を行っていこうではありませんか。
最後に、これも既に学んだところですが、ローマ書12章から、もう一度、本日の箇所に関係した次の御言葉を読んで終わりたいと思います。

(ローマ書)「 12:12望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。 12:13聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。 12:14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。 12:15喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

(祈り)