ローマ15:7-21 『ローマ41 教会の一致とは?』 2018/05/06 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙15:7~21
15:7 ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。
15:8 私は言います。キリストは、神の真理を表すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、
15:9 また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。
15:10 また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」
15:11 さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」
15:12 さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。
15:13 どうか希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。
15:15 ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は神が与えて下さった恵のゆえに、
15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた。神に喜ばれる捧げ物となるためです。
15:17 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。
15:18 私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げて下さったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、
15:19 また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。
15:20 このように、他の人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。
15:21 こう書かれている通りです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

先週小西さんがお話しして下さった個所で、パウロはこのように言っていましたね。

ローマ15:6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

パウロは、教会の中に一致があることの大切さをよく理解していました。
しかし、実際にはなかなかそれが難しいという現実もあったのです。
だからローマの教会は、ユダヤ人と異邦人との間で問題を抱えていたし、現代の教会も苦しんでいます。
教会に一致をもたらすことは、どうしてそんなに難しいのでしょうか。
今日はそのことに関して、この聖書個所から二つの理由と、その解決方法を考えていきたいと思います。

① 価値観の違いを乗り越える
さて、教会に一致をもたらすことが難しい第一の理由。
それは、いろんな人たちが教会にいるからです。
ローマの教会には、ユダヤ人たちと異邦人たちがいました。
彼らは互いに違う文化、違う価値観を持ち、互いに反目し合っていました。

現代の教会にも、様々な人たちが集まってきます。
私たちの教会にも、いろんな国の人たちがいますね。
異邦人であることに変わりはありませんが、文化も言葉も違います。
性格や性質にもいろいろです。
細かい人もいれば、大雑把な人もいます。
積極的な人もいれば、消極的な人もいます。
そんな私たちが、ひとつの教会として一緒にやっていくのは難しいことかもしれません。

どうすれば、教会に一致がもたらされるでしょうか?
ある人たちは、みんな同じでなければ一致を保つことはできないと思っています。
そこで、クリスチャンとはこういうものだという型を作り出し、みんながそれに当てはまるように訓練しようとします。
ある時には強いリーダーのもとに統制を学ばせ、ある時は細かくルールを作り、それを守らせることによって型に押し込めようとします。
でも、それはうまくいきません。
なぜなら、神様は最初から私たちを違うものとして創っているからです。

パウロは手紙の中で、教会をキリストのからだとして説明していました。
このように書いていましたね。

ローマ12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしていないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

私たちクリスチャンでは、ひとりでは完結していません。
一人ひとりはキリストのからだの器官であり、別々の働きを担っています。
そんな私たちが互いに繋がり、結び合うことによって一つのからだを形成しているのです。

全部目だったら、私たちはからだとしての働きが成り立ちませんね。
目があり、鼻があり、口があり、様々な器官があるから、私たちはひとつのからだとなることができるのです。
しかし、その働きが違うからこそ、一致することが難しくもなります。
目にとって大切なことと、鼻にとって大切なことは違うからです。
では、どうすればいいのでしょうか?

今日の個所で、パウロはこのように言っています。

15:7 ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。

キリストのからだの一部として加えられた人たち、それはイエス様が受け入れて下さった人だということです。
こんな私たちを受け入れて下さった方が、他の人々も受け入れた、それが教会です。

私たちは、一人ひとりが互いを見てしまうと、受け入れることが難しいこともあります。
「なんでこんなことをするんだ」とか、「どうしてこう考えないんだ」ということがたくさんあるでしょう。
場合によっては、「それでもクリスチャンか」と感じることだってあるかもしれません。
しかし、その人たちもまた、あなたと同じように、イエス様が命をかけて愛したひとりの人です。
「だから私たちは、互いを愛し、受け入れ合いなさい」とパウロは言うのです。

② 心を外に向かわせる
教会に一致をもたらすことを難しくしている第二の理由は、私たちの心が内向きになっているからです。

私たちは、自分のテリトリーを作って、そこを居心地の良い場所にしていこうとする性質を持っています。
だから、私たちにとってそういう場所が必要なことは確かですね。
でも、私たちが教会を自分のテリトリーとし、教会を居心地の良い場所にすることを目指していくと、私たち必ず問題に直面することになります。
なぜなら、そこには常に、自分と違う文化や性格の人たちが入ってきて、私たちの居心地のいいテリトリーを侵害することになるからです。

教会を、自分のテリトリーとして、居心地のいい場所にしておくためには、どうしたらいいと思いますか?
それは、テリトリーを侵害してくるような、自分とは価値観の違う人たちを排除するか、入ってくる人は自分と同じ価値観を持つように強制させることです。
そうすれば、教会は自分にとって居心地の良い場所になっていくでしょう。
でも、そこには別の問題が起こってきます。
それは、他の価値観を持つ人たちが、誰も入ってこなくなってしまうということです。

日本の多くの教会は、そこで力を持つ人たち、多くの場合は古くからその教会にいる少数の人たちにとって居心地の良い場所になるように作られています。
世の中の価値観を排除し、自分にとって心地よい状態を教会の伝統として守らせようとしました。
その結果見事に、世の中の人たちは誰も入って来られないような、そして入りたいと思わないような空間を作ることに成功したのです。

しかし、神様が求めている教会の姿は、それとは違うもののように思います。
福音がユダヤ人の中だけに留められていたら、それはどれほど楽なことだったでしょう?
しかし神様はもっと広い範囲の人たちを救い、さらに広げていくことをゴールにしていたのです。

神様が人に命じたのは、『生めよ。増えよ。地に満ちよ(創世記1:28)』ということでした。
イエス様が弟子たちに最後に命じたのは、『行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)』ということでした。
聖霊が与えられることによって約束されていたのは、『聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります(使徒1:8)』ということでした。

そしてその目的が果たされるために、イエス様は神としての生き方を捨てて人となり、パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人は異邦人のように接しました。
それが愛であり、神様の心だったからです。

私たちの心が内向きとなり、自分のテリトリーを守ることにいそしむなら、私たちは居心地の良い空間を得ることはできるかもしれませんが、成長は止まり、やがて命もなくなります。
でも神様の心求めていくなら、私たちはより遠くへと広がっていくことになります。
そのために私たちは、自分の願いや居心地の良さを犠牲にしなければならない時もあるかもしれません。
しかしそれによって、私たちの心はより柔軟になり、心が内向きだった時とは違う喜びを体験するようになります。
私たちは結果として、より自由で、しかし心から満ち足りることができる空間を、そこに味わうようになっていくのです。

別に自己犠牲でガマンし続けろというのではありません。
私たちの意識が変わるなら、私たちの喜びも変わっていく、そのことが大切なのです。

最後に、イエス様のことばを一緒に読んで、今日のメッセージを締めくくりましょう。

ルカ 9:24 自分の命を救おうとするものはそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

祈りましょう。