『魅力的な人には平安がある』2018/06/17 松田健太郎牧師
https://youtu.be/yR-yFOMHp54
箴言 3:17 知恵の道は楽しい道。
その通り道はみな平安である。
魅力的な人とは、どんな人でしょう?
誰かがそわそわしていたり、イライラしていたり、心配そうな顔をしているとき、それを見て、「あの人はすごく魅力的だなぁ」と思う人はあまりいないのではないでしょうか。
魅力的な人には、いつでも平安があります。
聖書には、こんなエピソードがあります。
マタイ 8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い人たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの人はどういう方なのだろうか。」
小さな舟に乗っていて嵐が来たら、心配になるのは当然のことのように思います。
イエスさまの弟子たちの多くは漁師でしたから、彼らが慌てるほどの嵐は相当のものだったでしょう。
そんな中で、なんと「イエスさまは眠っておられた」というのです。
私たちは、実際に嵐の湖を小舟で渡るという経験はしないかもしれません。
でも、人生の中で、様々な嵐に遭遇するのではないでしょうか?
大きな人生の嵐が吹き荒れているとき、私たちはなかなか平安でいるということはできないものです。
そわそわ、イライラ、ざわざわして、不安にさいなまれてしまうのではないでしょうか?
そんな嵐の中でも、イエスさまが眠っていたように、平安でいられるためには、どうすればいいのでしょうか?
① イエスさまとともにいるから
皆さんの中には、「嵐を鎮める奇跡を起こせるんだから、平安でいられるのは当たり前じゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
イエスさまご自身は確かにそうでしょう。
では、弟子たちはどうでしょう?
弟子たちには嵐を鎮める力なんてありません。
でもイエスさまは、弟子たちが慌てふためくのを見て、「どうして怖がるのか、信仰の薄い人たち」と言いました。
イエスさまは、弟子たちも平安でいることができたはずなのに、そうではなかったからこのように言ったはずです。
そうでなければ、弟子たちを差し置いて眠ってしまうなんていうことはなかったでしょう。
それでは、弟子たちはどうして平安でいられたはずだったのでしょうか?
それは、彼らがイエスさまとともにいたからです。
イエスさまがともにいるなら、心配する必要はありません。
必要であればイエスさまが嵐を鎮められます。
たとえそうでなかったとしても、その状況には意味があることですから、心配する必要はないのです。
② 神さまを信頼する
私たちがもっと平安でいることができるために必要なのは、私たちがもっと神さまを信頼することです。
これを、聖書では信仰を呼んでいます。
神さまの存在を信じているかどうかとか、何かの教理を理解して、その宗教に属しているかどうかというのは、信仰ではないのです。
神さまは全知全能であり、私たちを愛しているということを信じ、その神さまに信頼しているなら、私たちはどんな状況にあっても平安でいることができます。
どんな状況であったとしても、神さまによって打開することはできるし、もし状況が変わらなかったとしても、そこには意味があることだと知ることができるからです。
心配することに関して、イエスさまはこのような話をしていました。
マタイ 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
心配しても仕方がないし、心配しなくても神さまが備えてくださるのだとイエスさまは言っています。
でも、そのためには条件もありますね。
「まず神の国と神の義を求める」ということです。
これはつまり、自分の思いや計画ではなく、神さまのみこころを優先にするということです。
私たちが、自分の思いや考えに従って進むなら、その責任は私たち自身にあります。
しかし、私たちが神さまのみこころを受け取って、それに従って行動するなら、その責任は神さまにあることになるでしょう。
ならば、そのとき必要なものはすべて、神さまが備えてくださるということです。
だから私たちは、神さまのみこころに従って行動し続ける限りは、何も心配する必要がないのだとイエスさまは教えているのです。
③ キリストに似た者にある平安
私たちクリスチャンに与えられている特権。
それは、神さまとの関係の回復です。
クリスチャンでない限り、私たちは神さまのみこころがどこにあるか、そもそも神さまが何を考えているのかさえ分かりようがありません。
でも私たちは、神さまのみこころを知ることができます。
これは、私たちクリスチャンだけが得ることができる平安だということなのです。
さて、ここでこの話は、先週の話とつながります。
先週のメッセージで私たちは、魅力的な人になるためにはキリストに似た者となる必要があり、そのための3つの方法について学びました。
第一に、いつでもイエスさまとともにいること。
第二に、イエスさまの行動をまねること。
そして第三に、イエスさまに聞き従うことでした。
私たちがイエスさまに似た者となっていく過程には、自然と平安が伴うのです。
そして、どんな危機的な状況にあっても、慌てふためくことなく、平安でいることができる人は、魅力的な存在として、人々の目に映るのです。
もちろんそれは、決して簡単なことではありませんね。
祈りながら、少しずつイエスさまに似た者へと変えられていこうではありませんか。
ガラテヤ 1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安があなたがたにありますように。
祈りましょう。