ローマ12:15 『魅力的な人はわかってくれる』 2018/11/04 松田健太郎牧師

ローマ 12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。

日本で出回っているヒットソングの、半数近くがラブソングだと言われています。
特に、大ヒットする曲となると、そのほとんどがラブソングなのだそうです。
歌のテーマなんていくらでもあるはずですが、ラブソングはウケるんですね。
どうして世の中にはラブソングがあふれているのでしょうか?
それは、多くの人たちが、ラブソングを通して共感できるからです。
共感には力があります。
そして、何かが売れるかどうかだけではなく、人との関係においても、共感は大きな力を持っています。
共感は、相手の気持ちを理解しようとする努力であり、優しさだからです。
共感してくれる人は魅力的なのです。

私たちは共感してもらうことによって、自分はひとりではないと感じることができます。
「わかってもらえた」という感覚が私たちを強くし、時には冷静にし、正しい答えを見つけ出す助けになることもあります。
そして共感する方も、共感することによって相手が本当に必要としていることを感じ取り、相手を助けることができるのです。

つまり、共感することがなければ、相手が何を求めていて、何を必要としていないかを理解することもできないということです。
共感力がない人は、一方的に自分の話したいことだけを話し、相手の言葉に耳を傾けることができません。
共感力は、コミュニケーションの力でもあるのです。
そう考えてみると、共感してくれる人を魅力的に感じるのは当然のことですね。

さて、私たちクリスチャンはどうでしょうか?
聖書には「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」と書かれています。
これはまさに、相手に共感することであり、それが愛するということでもあるのです。
私たちクリスチャンは、そんな風に人に共感し、相手を愛しているでしょうか?

時々思うのは、私たちクリスチャンは「教えたがり」が多いということです。
私たちクリスチャンは、共感するよりも、つい正論を語って説教をしてしまいがちではないかと思います。
特に、牧師にそういうタイプが多いですね。
そもそも牧師がいつも説教ばかりしているから、クリスチャンは上から目線で教えようとし過ぎてしまうのかもしれません。

叱ったり、正したりする必要があるときも、もちろんあります。
でも、私の気持ちがわからず、わかろうともしない人のことばに、どうして耳を貸そうと思えるでしょうか?
特に、私たちが辛いとき、苦しいとき、私たちがまず求めるのは、「わかってもらうこと」なのではないかと思います。
ヒットしている恋愛ソングの8割は、失恋ソングや片思いの歌なんですよ。
それは、どれほど多くの人たちが失恋したかということではなく、痛みのときにこそ共感を得たいということではないでしょうか。

そして、「わかってもらえた」と思えたとき、私たちは初めて立ち上がる力を得ることができます。
その時初めて、私たちはアドバイスに耳を傾けることもできるようになります。
あるいはアドバイスなど聞くまでもなく、これからの自分に何が必要なのかということを冷静に判断することもできるのではないでしょうか。

旧約聖書にヨブという人の話が出てきます。
ヨブは悪魔による試練を受けて、子どもを失い、財産を失い、健康を失いました。
ヨブを気の毒に思った友人たちが各地からヨブの元を訪れ、彼のために涙を流しました。
そこまでは良かったのですが、3人の友人たちは、「おまえが苦しんでいるのは、お前に罪があるからだ」と言って彼を責めたのです。
それは、正論ではありましたが、ヨブには何の助けにもなりませんでした。
それどころか、その言葉はますます彼を苦しめることになったのです。
友人たちが、少しでもヨブを気遣って共感していたら、それはどれほどヨブの慰めとなり、力となったことだろうと思わないではいられません。

さて、「泣くものとともに泣く」のと同じくらい難しいのが、「喜ぶものとともに喜ぶ」ということです。
なぜかというと、私たちはとても嫉妬深いからです。
自分が幸せを感じていたり、満足しているときには、他の人の喜びを喜ぶことはそれほど難しいことではありません。
既婚者が他の人の結婚を喜んだり、成功者が他の人の成功を喜ぶのは難しいことではないのです。
しかし、自分が結婚相手を探していたり、成功者になろうとあがいているときには、他人のそれを喜ぶことが難しくなります。

それでは、私たちは共感するために、誰よりも成功していたり、幸せな人生を送っていなければならないということでしょうか?
もちろん、そうではありません。
そんなことを言い始めたらキリがありませんよね。
私たちは、自分がどんな状況にあったとしても、共感することができます。
ただそのためには、私たちの心の土台がしっかりしている必要があります。
自分がどのような状況に陥っていたとしても、その状況によっては揺るがされない心の状態が必要だということです。
いつでも、どんなときでも、神さまが私とともにいる。
神さまが私を愛してくださり、顧みてくださる。
神さまが必要を満たし、荒野に道を、砂漠に川を切り開いてくださる。
その信仰の土台の上に立つことによって、私たちは喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣く共感を手にすることができるのです。

さて、人と共感する上で、気をつけなければならないことがあります。
それは、共感しようとするあまり相手に感情移入し過ぎてしまって、相手の問題を自分が背負おうとしてしまうことです。
私たちが、誰かの重荷を代わりに背負ったり、背負わせようとしてはいけません。
それは、共依存という問題のある関係になってしまうからです。
ではどうすればいいのか?
それは、必要に応じて重荷を分かち合うことです。
ひとりでは重すぎる重荷も、ふたり、3人、さらにたくさんの人たちとともに負うことができたら、私たちはもっと大きな責任を負うこともできることでしょう。

イエスさまも、このように言っています。

マタイ 11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
「くびき」というのは、荷車を負わせるために2頭の牛をつなぐ首輪のようなものです。
つまりイエスさまも、私たちとともに重荷を負ってくださると言っているわけです。

それは、創造主である神さまが私たちの目線に立ち、共感しようとしてくださっているということです。
そんなこと、信じることができますか?
神さまは、ただ天にいて私たちを眺めているだけでありませんでした。
私たちを創造した神さまは私たちを心から愛し、私たちが神さまを裏切って罪人となってしまった後も心を注ぎ、共感し続けてくださいました。
そしてだからこそ、ナザレのイエスという人としてこの地上に来てくださったのです。

それだけではありません。
イエスさまは、私たちのために十字架にかかり、命を投げ出してくださいました。
私たちには負い切ることができない罪の重荷を、代わりに背負ってくださったのです。
そのようにして愛を示してくださった神さまが、私たちにも命じています。
「愛しなさい」と。

神さまが私たちに共感し、私たちを愛してくださっている。
そして、イエスさまが今も、私たちと一緒に重荷を負ってくださっている。
だから私たちも、他の人の重荷を分かち合うことができるはずです。

愛は共感から始まります。
そして、共感は力なのです。
まずは、私たちを愛し、共感してくださる方がいることを知るところから始めませんか?
祈りましょう。