2コリント11:29-30 『魅力的な人は弱さを誇る』 2018/11/18 松田健太郎牧師

2コリント 11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

初恋は実らないと言います。
初恋だけではなく、自分が好きになった人とはなかなかうまくいかないという傾向もありますよね。
なぜだと思いますか?
それは、私たちが好きな人の前では自分の弱さを隠して、良いところだけ見てもらいたいと思ってしまうからです。

私たちは、好きな人の前では自分の良いところだけを見てもらいたいと思いますし、悪い部分を見せたら嫌われてしまうのではないかと思ってしまいます。
だからなるべく本当の自分を隠し、少しでも良く、実際よりも大きく見せようとしてしまうわけです。
でも、そうやって相手には良い部分しか見せていないはずなのに、なぜか相手は自分のことを好きになってくれない。
それどころか相手との距離はどんどん大きくなってしまうのです。

考えてみれば当たり前ですが、完璧な人間なんてもともといるはずがありません。
悪い部分を見せず、良いところだけを見せようと装っているとすれば、それはすぐに相手にもわかってしまいます。
そこにある緊張も伝わるし、油断なく自らを装おうとしているのですから、相手にはそのプレッシャーも伝わってしまいます。
そして相手には、自分を信用してくれないという風にも受け取られてしまいます。
自分を信用してくれない人に対して、好感を持つことはありませんよね。
また、まず自分が心を開かないなら、相手も心を開かないものです。
このようにして、相手に良い印象を持ってもらおうとすればするほど、逆に好かれなくなってしまうというジレンマが起こってしまうわけです。

ではどうすればいいか? 解決方法は簡単ですね。
自分の弱さを包み隠さず、相手にさらけ出せばいいのです。
そうすれば、相手も安心して自分の弱さを見せることができます。
信頼されていると感じるので、その人も信頼することができます。
身構えなくてもいいので、一緒にいても楽だし、楽しいということにもなります。

私たちは、好感を持ってもらうためには弱さではなく、自分の良いところだけを見てもらおうとするのですが、実は自分の弱さを見せた方が好感度は上がります。
自分の弱さを見せることができる人は、魅力的なのです。

しかし、そうは言われても、自分の弱さを見せることには抵抗があったりしますよね。
弱さを見せた方がいいという事がわかっても、簡単にはできないのが実際のところです。
自分の弱さをさらけ出すことは、どうしてそんなに難しいと感じるのでしょうか?

ありのままの自分を受け入れることができていないと、私たちは自分の弱さを認めることができません。
ありのままの自分とは、弱さや問題を持った自分ですね。
しかしプライドなどがジャマをして、その自分を認め、受け入れることができなくなる。
そうして私たちは、無意識のうちに弱さを隠そうとしてしまうわけです。

多くの場合私たちは、何かできないこと、弱さがあることを悪いことだと思っているのではないでしょうか?
だから弱さを認められなくて、隠そうとしてしまう。
そして自分の弱さだけでなく、他人の弱さに対しても否定的、批判的になります。
しかしそのような考え方では、自分自身も苦しくなってきてしまうし、周りの人たちも辛くなってきてしまいます。
人前で弱さを見せるなんて、とんでもないことだからです。

私たちは誰でも、何かしらの弱さを持っています。
そんな弱さと、私たちはどのようにして向き合うべきでしょうか?
パウロは手紙の中でこのように書いていますね。

2コリント 11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

罪人である私たちに弱さがあるのは、当たり前のことです。
とは言え、弱さそのものは決していいことのようには思えません。
パウロは、どうして弱さを誇るなんて言うことができたのでしょう?
それは、弱さの中にこそ、神さまが働いてくださると知っていたからです。
彼は、同じ手紙の中でこのようなことも書いています。

2コリント 12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
12:8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

弱さのことだけを考えたら、私たちはその弱さを誇ることなんて到底できません。
それは私たちにとって欠けた部分であり、問題であったりもするからです。
しかしその弱さ、欠けの部分にこそ神さまが働いてくださるなら、それは恥であるどころか、私たちにとって祝福であり、誇りとさえなるのです。

私たちが自分の弱さを本当に受け入れるなら、私たちは謙遜で、柔和になります。
自分自身や他の人を責めたり、追い詰めたりする資格は自分にはなく、それが無益なことだとわかるからです。
自分自身に弱さがあることを知っているので、他の人たちの弱さも受け入れることができるのです。
赦しが始まり、愛が起こります。
そこに、天の御国があるのです。
イエスさまは、このように言っています。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

皆さんの弱さはどこにありますか?
その弱さを認め、自覚することはできているでしょうか?
弱さをさらけ出すことはできているでしょうか?
そしてさらに、その弱さを誇っているでしょうか?

僕自身、プライドが高く傲慢な人間性を持っているので、自分の弱さを認めることの難しさはよく理解できます。
プライドの高さそのものが、僕の弱さの一つでもあると思います。
他にも体力のなさ、飽きっぽさ、計画性のなさ、記憶力のなさ。
牧師としては、リーダーシップの低さ、思いやる心の足りなさ…、自分の弱さを挙げていけばキリがありません。

こんな僕が、どうして牧師になってしまったのだろうと考え始めると、正直何かの間違えだったのではないかと思わないではいられません。
人間的にも、牧師の資質としても足りない所ばかりで、皆さんにご迷惑をかけることが多過ぎるように思うからです。
しかし、僕が自分の弱さを自覚して神さまに助けを求める限り、神さまは僕の欠けている部分を補い、その弱さの中に働いてくださると心から信じています。
それが、神さまの約束だからです。

今はまだ、弱さを開き直っているだけの部分が多いかもしれません。
でも開き直っているだけでは、心から謙遜になり、柔和になることはないと思います。
私たちが本当に自分自身の、そして互いの弱さを認め、受け入れ、誇ることができるように、祈りあっていきましょう。