箴言18:12、1ペテロ3:8 『魅力的な人は自らを低くする』 2018/12/02 松田健太郎牧師
箴言 18:12 人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。
Ⅰペテロ 3:8 最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の
優しい人となり、謙虚でありなさい。
謙遜、謙虚、へりくだるということは、聖書の中に繰り返し語られる大切な性質です。
私たちは、成熟してイエスさまに似た者へと近づいていくにしたがって、よりへりくだり、謙遜になっていきます。
そして、謙遜な人には魅力があるのです。
日本でも、謙遜は美徳だということが昔から言われてきました。
だから、「別にクリスチャンでなくても、日本人は謙遜な人が多いですよ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、聖書を通して神さまが私たちに教えていることを受け取っていくと、わかってくることがあります。
それは、私たちが思っている「謙虚・謙遜」と、聖書が教えている「謙虚・謙遜」は、似ているようでまったく違うものだということです。
そこで今日は、聖書が教えている「謙遜」とはどういうものなのかということ、「謙遜」になった私たちにはどんなことが起こるかということ、そしてどうすれば謙遜さを身に着けることができるかという3つのことについてお話ししたいと思います。
① 謙遜さとはなにか?
皆さんは、「謙虚・謙遜」とはどういうことだと思いますか?
日本語の謙虚ということばは、「ひかえめでつつましく、へりくだって素直に相手の意見を受け入れる」というような意味です。
また謙遜は、「自分の能力を低く評価すること」という意味になります。
いかにも日本人らしい感じがしますが、私たちは日本語に訳されている言葉の印象から判断するのではなく、神さまが伝えようとしていた意味として理解するひつようがあります。
そのためには、イエスさまをモデルに考えればいいのです。
イエスさまは別に、ひかえめだったわけでも、つつましかったわけでもありません。
ましてや、素直に相手の意見を受け入れたり、自分を低く評価したりしませんでした。
「癒してください」と頼まれて、「いやぁ、私なんかにそんなことはできませんよ~」と言ったり、パリサイ派の人たちに責め寄られて、「先生方がおっしゃられることももっともです」と認めるイエスさまなんて想像できますか?
むしろ、あまり見たくないイエスさまの姿ではないでしょうか?
このような謙遜は、あくまでも儒教的な文化の中から生まれてきた価値観なのです。
また、日本的謙遜さの中には、相手から嫌われたくないという心理も働いているような気がします。
このような姿勢や態度は、日本の文化の中で求められることはあるにしても、私たちクリスチャンが身に着けるべき性質というわけではありません。
それどころか、時と場合によっては非聖書的で、戒める必要のある性質なのだということを忘れてはいけません。
日本的な謙遜は、人の前で神さまを貶めたり、否定することにもなりかねないからです。
それでは、イエスさまのどのような性質から、謙虚さや、謙遜さを学ぶことができるでしょう?
イエスさまは、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい(マタイ 20:26) 」と教え、「わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています(ルカ 22:27)」 と言いました。
そして、弟子たちの足を洗うことを通して、その姿勢を明らかにしたのです。
また、パウロは手紙の中で、イエスさまについてこのように記しました。
ピリピ 2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
ここに、イエスさまがへりくだる姿が表されています。
聖書が教える謙虚さ、謙遜さとは、自らを低くして神さまと人に仕える姿勢なのです。
② 謙遜になった私たちには何が起こるか?
私たちが謙遜になると、どんなことが起こるでしょうか?
結論を先に言うと、謙遜な人には魅力があるのです。
このシリーズの中で謙遜さについて取り上げるわけですから当然のことですね。
それでは、謙遜な人はどうして魅力的なのでしょうか?
第一に、謙遜な姿勢には平安があるからです。
皆さんは、最近ムカついたり、傷ついたりしましたか?
私たちは多くの場合、プライドが傷つけられたときにカチンときたり、心が傷つきます。
つまり、自分を高いところに置こうとしているのに、低くされるから腹が立つわけです。
最初から、自分は低いと認識していれば、何を言われても傷つくことはありません。
私たちは高慢だからムカつくし、傷つくのです。
第二に、謙遜な姿勢には喜びがあるからです。
仕えるものとして自分を低くするとき、そこに悪いことが起こっても、それは当たり前。
そして、何か少しでもいいことがあれば、私たちは心から感謝することができます。
「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(Ⅰテサロニケ 5:18)」とパウロは書きました。
どんな時でも感謝ができる姿勢には喜びがあり、喜びがある人には魅力があるのです。
第三に、本気で相手に仕える姿勢には、愛があるからです。
イエスさまは、日本人的な謙虚や謙遜とはほど遠く、誰にもへつらったり、機嫌を取ったりせず、時には厳しさもありました。
そんなイエスさまが、それでも魅力的だったのは、イエスさまは本気で相手を愛し、相手のために生きようとしていたからだと思います。
本気で仕えようとするなら、その本気さは愛として、相手に伝わるのです。
さて、私たちが謙遜になるときに起こることをもう一つ紹介しましょう。
私たちが謙遜になるということは、それがどんなことであろうと神さまに従い、神さまのみこころを受け入れるということです。
イエスさまの母となったマリアには、そのような姿勢がありました。
ルカ 1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
処女である自分が救い主を生むという、信じがたいことをマリアは告げられました。
マリアは謙遜にそれを受け入れ、その結果奇蹟によってイエスさまを身ごもったのです。
私たちは勝手に「そんなことは起こるはずがない」と言って、神さまの働きを否定してしまっていないでしょうか?
私たちの高慢が、神さまの働きを邪魔してしまうのです。
もっと謙遜になって、神さまが私たちを通してなそうとしていることを受け入れ、それに従う必要があるのではないでしょうか?
③ どうすれば謙遜さを身に着けることができるか?
どうすれば謙遜な人間になることができるのでしょうか?
それは、「私たちは神さまではない」という当たり前の現実を受け入れることです。
当たり前のことのようですが、実はそれほど簡単なことではありません。
アダムとエバが、「それを食べると神のようになる」という悪魔の嘘がもつ誘惑に負けてしまったことを考えてもそれがわかります。
「神さまのようになりたい」という思いが、私たちに罪の源にあるのです。
実は日本人的な謙虚・謙遜が、本当の謙遜になることを阻害してしまいます。
私たちは、表面的に「低い人としてふるまう」ことに慣れ過ぎて、「本当に低い」という現実を受け入れることを回避してしまうからです。
「わたしなんて」と言いながら本当は高慢だということは、私たちがどれだけ頻繁に腹を立て、傷ついているかということを考えてみれば一目瞭然です。
表面的な謙遜さでごまかすのではなく、本当に謙遜にならない限り、私たちはイエスさまに似た者とはなりません。
私たちが「美徳」だと信じてきた謙虚や、謙遜は、実は私たちの高慢さをごまかすところから生まれてきた文化なのかもしれませんね。
本当の謙遜を身に着けるために近道はありません。
私たちはあらゆる場面で、「自分は神さまではない」という現実に直面し、自分の低さを自覚する必要があるのです。
最後に、このみことばを慰めとして、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。
ヤコブ 4:10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。