詩編 8:4 「本当に価値のある人生」 2019/01/06 松田健太郎牧師

詩編 8:4 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

「本当に価値のある人生」って、どういうものだと思いますか?
後悔しない人生を送るために、やりたいことは何でもやるという人がいます。
食べたいものを食べ、あらゆるところに旅行し、いろんな経験をするために一生懸命生きています。

ある人は、「何を成し遂げたかによって人生は決まる」と言います。
その人は、たくさんの人に関り、ボランティアや、会社のプロジェクトに参加し、大きな働きを成し遂げようとしています。

どれも、素晴らしい人生だと思います。
でも、すべての人が味わえる人生ではありません。
「そんな人生を送れたらいいなぁと思うけど、自分には才能がないのでそんな風には生きられない」「養わなければならない家族があるし、それを犠牲にして生きることは自分にはできない」という人たちがいます。
ある人は、価値のある人生を築くためにバリバリ働いてお金も稼いできたけれど、家族が病気になって、それができなくなってしまったという経験をします。
ある人は、志半ばで会社が倒産してしまい、すべてを失ってしまいます。

僕が知る限り、ほとんどの人はあきらめざるを得ない人生を送ります。
中には、あきらめきれなくて人を妬んだり、それが原因でうつ病になってしまう人たちも少なくありません。

それでは、すべてを手に入れた人たちは本当に価値のある人生を生きているのかと言えば、それもなんとも言えません。
スティーブ・ジョブスやフレディ・マーキュリーのような、私たちが成功者だと思うような人であっても、本当に価値のある人生を送ったと感じているとうわけではないようです。
聖書の中では、もっとも多くの富を持ち、すべてを手に入れたとされるソロモン王は「すべては空しい」と言っています。

本当に価値のある人生は、どこにあるのでしょう?
それは、どんな人生なのでしょう?
今日は、聖書からふたつのことを学んでいきたいと思います。

第一に、私たちにとって価値のある人生とは、私たちが創造されたように生きる人生だということです。
私たちはどのような者として創造されているでしょうか?
聖書には、このように書かれています。

創世記 1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

本来私たちには、神さまに似せて創造された、神さまの似姿としての自分があります。
それは、全知全能であり、私たちを愛している神さまが、心を込めて作った最高傑作としての私たちです。

しかし私たちは、神さまに背いて離れ、自分や他の物により頼むようになりました。
それが、聖書の中で「罪人」と呼ばれる状態です。
それによって私たちは、本来あるべき祝福にあふれた生き方からも離れてしまいました。
神さまとの関係が壊れ、神さまが私たちをどのような目的に従って、何をさせようとしており、何のために生きているのか、私たちはその方向性を見失ったのです。
私たちが罪人として生きるということは、神さまが歩ませようとしていた素晴らしい道から離れて、自分勝手に思いの道を歩むことに他なりません。

私たちが、神さまに創造されたように生きることができたら、それは私たちにとって、本当に価値のある人生となることでしょう。

今日私たちが学ぶ第ニのことは、価値のある人生の形はそれぞれに違うということです。
なぜなら、私たちはそれぞれに、違う個性を持ち、違う性質を持ち、違う使命を与えられ、違う賜物を預けられているからです。

聖書には、様々な形でそのことが伝えられています。
イエスさまは、旅に出かけた主人と、財産を預けられた3人のしもべの話を通して、それを教えました。
ある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラントが預けられています。
私たちはその量に注目し、自分に預けられているものと他の人に預けられているものを比べて一喜一憂してしまいがちですが、肝心なのはそれぞれに違うものが与えられているということです。
そして、自分に預けられた小さなものに忠実に生きるなら、より大きなものが与えられるとイエスさまは言ったのです。

パウロは手紙の中で、私たちはキリストをかしらとするひとつの体だと言いました。
それぞれに役割は違うけれど、ひとつとして欠けてはならないものです。
ある人は他の人に比べると、見た目もよくないし働きが地味かもしれませんが、実はそれが大切な器官だったりするのです。

私たちは違うものとして創られているのに、それを同じ型に押し込めようとしたり、他の人たちの成功を見てまねしようとするから変なことになってしまうわけです。
いつも言うことですが、バイオリンはドラムスティックで叩いても、ピックでジャカジャカやっても音は出ますが、弓を使ってバイオリンとして奏でられたときに一番いい音が出ますよね。
つまり、私たちにとって本当に価値のある人生というのは、どんな素晴らしいことをしたかとか、何を成し遂げたかとかそんなことではなく、どれだけ自分らしく生きることができたかということなのです。

間違いやすいので言っておきますが、自分らしさを大切にして生きるということは、自分の好きな通りに勝手に生きるということではありません。
神さまが創造した、本来の私らしく生きるということです。
確かにそれは、簡単なことではありませんね。
私たちは、本来の自分がどのような者なのかがわからないし、周りの人たちからの「ああしろ、こうしろ」というプレッシャーもあるからです。
しかしそれでも、本当の自分らしく生きるほど価値のある生き方はないと、私は断言します。

それでは、私たちはどうすれば、自分はどのような者として創られ、どのような使命が与えられているのかということを知ることができるのでしょうか?
自分がバイオリンなのか、ウクレレなのか、どうすればわかるのでしょうか?

まずは、周りの人を見ないことが大切です。
他の人が何をしているか? 何を持っていて、どんなものを観たり、聴いたりしているかを気にしていると、どうしても引っ張られてしまいます。
他の人からどう思われるかということも、忘れましょう。
人から好かれたい、嫌われたくないと考えていると、それにも引っ張られてしまいます。

次に、どんな犠牲もいとわないことです。

マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

と、イエスさまは言いました。
本当の価値のある人生とは、私たちがハッピーでラッキーな人生だとは限りません。
もしそうだったら、イエスさまの弟子たちはみんな野垂れ死にしたりせず、「めでたしめでたし」の人生を送ったことでしょう。
神さまに従って、本当に価値のある人生を送るなら、私たちには覚悟も必要なのです。

そして、その二つの条件が整ったら、神さまに聞いてみることです。
私たちが何者かを知っているのは、誰よりも私たちを創造した神さまご自身だからです。
神さまに聞いて答えをもらうためには少し練習が必要かもしれませんが、クリスチャンならだれにでもできます。
どうすれば神さまの声を聞くことができるかということについては、また別の機会にお話ししますが、ここでのコツは、あまり先のことについては聞かないことです。

「神さま、あなたは私を何のために創ったのでしょうか? どのような使命が与えられているのでしょう?」と聞いても、はっきりとした答えを得ることはできません。
「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12:1)」と、神さまはアブラムに命じましたが、ゴールがどこにあるのかということは教えられませんでした。
「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ 6:34)」と、イエスさまも言いました。
私たちは、今与えられることに忠実に生きることが求められているのです。
そして、今与えられているわずかなものに忠実だったら、たくさんのものを任されるようになります。
その繰り返しの中で、私たちは本当に価値のある人生を見出していくことになるのです。

僕は今まで、この道を歩むことを恐れていました。
でも今は、心からその人生を望んでいます。
2019年が、そのための第一歩となることを、心から願っています。
皆さんも一緒に歩み始めませんか?
祈りましょう。