ヨハネ6:1-15 『神様はあなたに期待している』 2019/6/23 西郷純一牧師

●時:2019年6月23日  クロスロード・チャーチ  ●題:「神様はあなたに期待している」
●聖書:ヨハネ6章1-15節
序  論
●今日、皆様と2回目にこうして礼拝を守るために、神様が、導いてくださった聖書の箇所は、ヨハネ6章1-15節である。これは、また、神様が、私に伝道者としての生涯を歩むようにと示されたときのみ言葉でもある。
●それは、イエス様が少年の持っていた二つの魚と五つのパンをもって、男だけで5000人いたと言われる大群衆のお腹を満たした奇跡を記す聖書箇所である。
●この出来事は、ご存知のように4つの福音書、即ちマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書、どれにも記されているという意味でも、大変有名かつ、重要なものである。
●その内、マタイ、マルコ、ルカの福音書では、「(食べ物のために)人々が出て行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べるものを上げなさい。」と記されている。
●私が、当時、17才のとき、このお言葉を読んだとき、はっきり確信したことは、「あなたがた」とは「私たち」である。「私たちが、人々に、彼らが必要としている肉の食べ物ならぬ霊の食べ物、永遠の命を与える命のパン、イエス様、聖書のお言葉を伝えることを、イエス様は私に求めている、期待しておられることであった。
●神様は、皆様一人一人にも語っておられる。「あなたがたで、人々に命の食べ物を届けなさい」と。
●その意味で、神さまは、あなたに大きな期待をしておられる。
●以前にもご紹介したが、世界のトップ・クラスの自動車メーカーであるHondaの経営理念(フィロソフィー)の最後の部分に次ぎのような言葉がある:ホンダは「夢」を原動力とし、この価値観をベースにすべての企業活動を通じて、世界中のお客様や社会と喜びと感動を分かちあうことで、「存在を期待される企業」をめざして、チャレンジを続けていきます。
●これが、戦後の日本経済の成長と発展を引っ張ってきた日本のトップ企業の姿勢である。それは、「存在を期待される企業をめざ」すことである。
●「期待される」企業・人物というのは、それ自体魅力である。 自分が、そういう存在だと意識できる人は輝いている。皆が、私は期待されていると確信できたら、社会は変わるであろう。
●「期待されている」ということは、言い方を変えると、「必要とされている」とも言える。
1.私も正にそのような年齢になったが、しばしば、年をとると、「もう私なんか必要のない存在だ」「みんなからあまり期待もされていない存在だ」とひがみやすくなる、寂しくもなる。
2.年をとってから、趣味をもって生きるのも良いが、もっと素晴らしいことは、「自分は、いつまでも必要とされている、期待されている存在なのだ」と確信できることである。
●しかし、それが、中々、そのようには行かない。多くの人々が、私は期待されている、必要とされているという確信を持てないでいる。あなたもその一人かもしれない。その理由は:
1.ほかの人から、「この人は何にもできない人だ」と思われていると思い込んでいる
2.自分で自分に自信が持てない、等々である。
3.内館牧子氏が書いた「終わった人」の主人公壮介も、かつてのエリート社員出会った自分が、今は、誰からも期待されなくなってしまったことで苦悩と孤独に陥る。
4.私の忘れられない記憶がある:60才を過ぎてユースキャンプの主講師として招いて頂いたときのこと。嬉しくて張り切って、メッセージだけでなく、何でもユースと一緒にすると決めて参加。屋外のゲームも遊びも皆と一緒に。しかし、二チームに分かれて水鉄砲で戦争するゲームで、夢中になって参加しているとき、もう少しで敵陣突入というとき、足がもつれ転倒。目を開けると、皆が集まってきて、心配そうに私を見ている。その中の人がキャンプの責任者。彼女は言った。「先生、申し訳ないのですが、責任上、参加は諦めてもらえますか」と。最早期待されていない私がいた。
●しかし、神の国において、神様が期待していない人物はひとりもいない。神様は、すべての人に期待しておられる。
●そこで、今日は、次のことをメッセージとしてお伝えしたい:
1.第一は、序論的に、イエス様は、世界の人々のために、とても大切な、しかも、大きな仕事をしようとしておられること。
2.次に、本論として、イエス様は、その大事業を一人で自分だけでするのではなく、私たちが一緒に働いてくれることを期待していること。
3.最後に、第3番目として、イエス様のその期待に応えて、その大事業に参与しようとするなら、イエスさまがその協力者たちに求められる条件について3つのこと学びたい。
●この最後のことが、今日のメッセージの中心であり、そのことをヨハネだけが記している、この5つのパンと二つの魚の提供者である少年の行動と姿から学ぶ。
本  論
Ⅰ.イエス様が、とても大切で、しかも大きな仕事をこの世界のためにしようとしておられる事実を確認したい。
A. それは、全世界の人々の心の空腹を命のパンで満たすことである。
1.ここで、イエス様の前には、一万人を超える大群衆がいた。
(1)群衆の数は、男だけで5000人と記されている。即ち、恐らくこどもたち、女性を含めるなら、10000人以上はいたと思われる大群衆であった。
(2)しかも、そのときは、もう夕方も遅かったので、その群衆は、子供から大人、お年よりまで、全員が、お腹をペコペコに空かしていた。
2.イエス様は、大胆にも、その深い愛情から、このお腹を空かした群衆一人一人を満腹にしようとされたのである。
3.しかし、それは、人間的には、Impossible、不可能に近いことであった。なぜなら:
(1)それは、第一に、群衆の数が10000人以上と、余りにも多かったため。即ち、
●それは10や20、100や200でもない。少なくとも10000人以上であった。
●だから、ピリポは言った。「たとい200デナリ、即ち200万円分のパンがあっても足りません」と(7節)。
●弟子たちにしても、そんな大量のパンを買うお金もないし、そもそも、そんな大量のパンは見たこともないと思ったであろう。
(2)第二に、彼らのいた場所には、そんな大量のパンを売っているお店もなかった。
●マタイ14章15節「寂しいところ」
●マルコ6章35節「辺鄙なところ」
●ルカ9章12節「人里離れたところ」と記されているように。
4.にもかかわらず、イエス様はこの群衆を前にして、初めからご自分のなさろうとしておられることは知っておられた、決めておられたのであった。即ち、聖書はこのように記している。
(1)「イエスは弟子のピリポに言われた。「どこから、パンを買ってきて、この人々に食べさせようか? もっともイエスは、ピリポを試してこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしておられることを知っておられたからである」(ヨハネ6章6節)。
(2)即ち、イエス様は、ここで不可能と困難を知りつつも、何をするべきかはすでに心に決めておられた。それは、目の前にいる群衆一人一人の空腹を満たすことであった。
B.しかし、大切なことは、ここでイエス様が弟子たちに教えたかった最大のレッスンは、物質としてのパンを与えることではなく、心の糧、命のパン、永遠の命のパンを人々に与える使命についてであった。
1.イエス様は、単に人々に肉体的飢えを満たすための物質的パンを与える救い主として来られたのではなかった。
2.だから、14節、15節にあるように、イエス様は、ここでわずか5つのパンと2匹の魚で、10000人を超える人々の腹を満たすという「パンの奇跡」を行い、群衆が興奮して「この方こそ、イスラエルをローマ帝国への隷属から、政治的にも、経済的にも、救い出してくれる新しい王だ」と言って迎えようとしたとき、彼はそれを拒絶して「山へ逃げた」のである。
3.まただからこそ、誰もが覚えている御言葉であるが、イエス様はサタンに向かって「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によるのである」と言われた。
4.更には、6章27節にあるように、「朽ちる食物の為ではなく、朽ちない永遠のいのちにいたる食物の為に働きなさい」と言われた。
5.即ち、イエス様は、肉体のパンではなく、心のパンを与える救い主として来られたのである。
6.それゆえ、ここでイエス様が物質的パンをもって、そこにいた全員のお腹を奇跡的御業をもって満たした事実は、イエス様が霊的なパンをもって人々の心を満たすことの象徴であった。
7.即ち、イエス様は、ここで弟子たちにこのように言われたかったのである:
(1)このパンの奇跡は、どこまでも象徴だ。このことを通して、あなたがたに知って欲しいことがある。
(2)世界中に、ここにいる10000人にもまさる膨大な数の人々がいる。彼らもまた、お腹を空かして待っている。
(3)しかし、私の究極的な関心は、彼らの肉体的な飢えではなく、彼らの霊的な飢えである。
(4)その飢えを満たすために命のパンとして私は来た。
(5)私のビジョンは、今日あなたがたが、目の前で人々の飢えが満たされたのを見たように、世界中の人々の霊の、心の飢えが満たされることである、と。
(6)これがイエス様の世界宣教のビジョンである。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を伝える」ビジョンである。
Ⅱ.しかし、この奇跡の出来事で一番大切なポイントは、イエス様が弟子たちに「協力」を求められたことである。
A. 聖書をもう一度開きたい。
1.ヨハネ6章5-6節を見ると、次のことが明らかになる。
(1)イエス様は、弟子たちに相談しなくても、しようとすることは分かっておられた。
(2)それだけでなく、恐らく、それをご自分一人でもできた。
(3)しかし、イエス様は、それを、ここでピリポに、相談するように、声をかけられ、やがては、弟子たち全員を巻き込んだように、弟子たちと一緒に、この大事業に取り組みたかったのである。
2.このことは、この同じ出来事を記すマタイ14章15-16節を見ると、一層明確になる:
弟子たちは言った。「群衆を解散させてください。そして、村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」。
3.これらの聖句が示すイエス様と弟子たちの会話から明らかなことは、
(1)イエス様は、お一人で、この世界宣教のビジョンを果たすつもりはないということ。
(2)むしろ、「協力者」を求めていること。
(3)その協力者とは、弟子たち、即ち、私たちクリスチャンであること、である。
B.そもそもクリスチャン生涯とは何か? イエス様の世界宣教のビジョン達成の「協力者」となることである。
1.クリスチャン生涯における「伝道」「宣教」は、暇だからする、できるときにすると言うようなオプションではない。それは人生である。そのために生きている命である。
2.ウィリアム・カーレーは、インドへの宣教師として「近代宣教の父」と呼ばれ、偉大な仕事を成し遂げた人物である。彼は、宣教師になる前に靴屋をしていたが、ある日、見知らぬ人がやって来て彼に尋ねた。「あなたの仕事は何ですか」と。するとカーレーは微笑みながら答えた。「私の仕事はキリストを証しすることです。靴を修理していますが、それはただ自分の生活が満たされるためにしているのです」。
3.それだけではない。私たちが、ある職業をもっているとするなら、その職業を通して神様の素晴らしさを知り、また知らせることができる。
(1) 例えば、あなたがもし科学者だとするなら:
●自然界の中に隠されている科学的発見を通して、神様の造られた世界の素晴らしさを証明できる。それはあなたの知性の優秀さを証明するためではない。更に、その発見を利用して、人類の文明の発達に貢献できる。
●そして、科学者たちのコミュニティーのど真ん中で、その生活、生き様を通して、イエス様を証しすることができる。
(2)あなたがもしビジネスマンだとするならどうか?
●生活を通して、同じビジネスの世界に生きている人々に証できるであろう。
●また経済的な力をもって宣教に貢献もできる。かつて私たちのミニストリーを10年以上にわたって助けてくれていたアメリカ人のビジネスマンはこう言った。「純一、神様はあなたに牧師・伝道者としての賜物を与えられた。あなたはその賜物をもって私に、また、ほかの人に仕えている。神様は、私にはビジネスマンとしてお金を得る賜物を与えられた。だから、私もその賜物をもって、あなたを支え、宣教に貢献したいのだ」と。
Ⅲ.最後に学びたいことは、この協力者に求められる条件である。そのことを、ヨハネ6章9節が紹介するこの奇跡のために用いられた、5つのパンと2匹の魚をもってきた一人の少年の姿から学ぶ。
A. まず、第一に、この少年は、神の御心、御旨、声に敏感であった。
1.そうでなければ、この少年は、このようにイエス様の行われようとしていた奇跡の業に参与するチャンスを掴むことはなかったであろう。
2.想像するに、この出来事の状況は、イエス様が長い説教を終えて、みながほっとしているところである。丁度、礼拝が終わったばかりの時のようである。みながザワザワとして雑談しているときである。ほとんどの人々の関心は、イエス様から、また、イエス様が今語られたことからは離れて、雑談に移っていたであろう。
3.しかし、この少年は違っていた。イエス様を見つめ続けていた。イエス様は、今何を考え、何を必要としているかを知りたいとイエス様に近づいて行った。
4.だから、イエス様と弟子たちの会話、「食べ物」に関する会話が耳に入って来たのである。そして、自分にできることは?と考えて自分のお弁当であったであろう5つのパンと2匹の魚を持ってきたのである。
5.ほとんどの人々には、ざわめきと興奮、様々な音や声でかき消される主の声、主の思いを彼は逃さなかったのである。
6.聖書は言う。神の声は、しばしば細い、小さい。聞き逃しやすい。しかし、この少年は常に主の近くにいてその細い主の御声を聞こうとした。
(1)愛する人にはそれが分かる。イエス様の十字架の直前に、多くの弟子たちが誤った興奮に溺れていたとき、イエス様の心にあった十字架への道を察知して、イエス様に油を塗った女を思いだしていただきたい。
(2)「白いギター」(チェリッシュ)の歌詞から
B. この少年は、自分のもっているすべてを捧げた。
A.この少年にとって2匹の魚と5つのパンは持っていたすべてであった。部分ではなかった。
B.それは全体の必要から言ったら数にも入らない僅かであった。何の役に立つのかというほど。
C.しかし、神様は、いつも私たちが、持てるすべてを捧げることを期待しておられる。
D.神様が求めておられるのは量ではない。それがあなたのすべてかどうかであり、あなたがすべてを捧げるとき、それを喜び、祝福し、用いられる。
(1)レプタ二つを捧げた婦人の例(ルカ21:1-4)(2)2タラントの僕(マタイ25:14-27)。(3)私の父:破産・癌、何もかもを失った父が、最期に自分を捧げたときに与えられた喜び
C.この少年は、神様はどんな小さいものでも用いられるという信仰をもっていた。
A.多くの人は捧げるものが無いから捧げないのではない。誰でも捧げるべきものは持っている。
B.にもかかわらず、彼らが捧げないのは、丁度弟子たちが言ったのと同じように「こんなものを捧げて何になる」(9節)と思うからである。信仰がないからである。
C.即ち、どんなものをも、どんな小さなものをも用いる神様に対する信仰がないからである。
D.しかし、この少年は違った。どんなものでも何かの役に立てる、イエス様なら、どんなものでも受け入れ、役に立ててくれると言う信仰があったのである。
D.だから弟子たちに「こんなもの・・・」と軽く扱われてもイエス様のところに持っていった。
E.マクリーン・バイブル・チャーチの牧師ロン・ソロモンの証し
神様は、やがて大教会の牧師となり、多くの人を祝福する神の器をユダヤ人の中から選ばれるために、一人の名もない黒人のメイドさんの、小さな賛美を通しての祈りを用いられた。
結      論
★イエス様が持っている、世界宣教のビジョンを覚えたい。
★その世界宣教のために、神様は、あなたを協力者として必要としておられる。期待しておられる。
★その協力者になるために、①神様の御声をいつも敏感に聞く者でありたい。②神様に、すべてを捧げるものでありたい。最後に③神様はどんなものでも受け入れ、祝福し用いてくださると信じる者でありたい。
★皆様が、今後、この教会に留まるにしても、どこか別の教会に行かれるにしても、また、私自身も、残りの生涯を、私を世界宣教のために、必要とし、期待していてくださる神様に協力者として応答したい。