マタイ18:1-5 『この子らが世の光に』 2019/7/21 小西孝蔵

2019年7月21日メッセージ聖書箇所 「この子らが世の光に」

マタイによる福音書18章
18:1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 18:2すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 18:4この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 18:5また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

(関連聖書箇所)
マタイによる福音書5章1~4節
5:1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

マタイ18章12~14節
18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

マタイ20章25~28節
20:25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 20:26あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 20:27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。 20:28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

ヨハネ13章14節
13:14しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
(祈り)

1. 初めに
先週から1週間、ワールドビジョンのチャイルドスポンサーのケニアツアーに家内と参加。日本からナイロビまで20時間。ナイロビから車で4時間、その半分は、がたがた道。疲労の限界。電気、水、医療施設もないところ。国民の約半数が一日2ドル未満の収入で生活。ワールドビジョンのチャイルドスポンサーと企業の寄付で、学校教育支援、井戸による水供給、ソーラーパネル、保健所の設置などを支援。特に、女子の早婚やFGM(女子の割礼のような習慣)の防止な度、子どもの人権保護も大きな課題。
学校訪問の際、熱烈な歓迎。―パワポの写真参照― 貧しさのため。学校に通えない子供たちも多い。学校に通えることが喜び。将来の夢が広がる(医者、弁護士など)。目が輝いている。国民の8割がキリスト教徒。交流会もすべて祈りに始まり、祈りに終わる。国民性として、心配しない、楽天的、現地の生活のキーワードは、スワヒリ語で「ハクナマタータ」。ライオンキングの歌でも有名。2か所の訪問地の一つは、有名なマサイ・マラ国立保護区のサハラパークの近く。
本日のメッセージ箇所は、マタイ18章の子どもを中心に話されたイエスの教え、ケニアでの体験ももう一度触れる機会がある。

2. 弟子の序列争い
18:1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
・イエスの受難予告の後の争い(20章で繰り返し)
-神の国と地の国との混同
・現代の出世競争(受験戦争と就職戦線)
―いい大学、いい会社を目指して競争、競争自体は、能力開発、人間を鍛える意味でいいこと。問題は、手段を目的をはき違えることにある。人に勝つことが人生の目的になると傲慢の罪に陥る。
―男性にとって人事評価、出世が最大の関心事(飲み会の話題)、社長、取締役、部長、課長・・。事務次官、局長、部長、課長・・。もっとも、最近の若い人は、偉くなりたがらない? 責任が大きく大変だから?
―女性にとって、子どもの進学も最大の関心事のひとつ。男性が子育てや教育を母親に追わせていることもあるが、母親は、教育熱心、子供自慢も? マタイ20章のゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)の母も同じ。
・人と比較する習性から脱却するのは、至難の業。しかし、今日の聖書のイエスを言葉を信じ、イエスに仕えることによって、次第に道が示され、知らず知らずのうちに、自分の人生を振り返って最大の感謝となる。
3. イエスの教え
18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 18:4この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 18:5また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

・二つのメッセージ
① 幼子のようになりなさい。(18;3,4及び19;13,14)-天国は彼らのものである。  山上の垂訓(マタイ5章)に通じる
5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。5:4悲 しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」
② 子どものように弱いものを受け入れなさい。(18;5)-イエスを受け入れるのと同じ。マタイ25章のたとえ話も同趣旨

・この二つのメッセージは、マルコにも、ルカにも、それぞれ1回ずつ出てくる重要なテーマ。(マタイ18,19章。マルコ9章、10章、ルカ9章、18章。
・私たちの教会の子供向けのお話、厚見さん、ベスさん、野村さんのお話は、大人にもとても参考になる。なぜなら、子供自身が天国に入るモデルだから。

4. 弱い立場の子ども達
ケニアの貧しい農村の子ども達の屈託のない笑顔、キラキラした目。ワールドビジョンでは、そういう子供たちのことを、’most vulnerable children’と呼んでいる。こうした子供たちが親たちやスポンサーたちに助けを求めるように、弱くて心の貧しい私たちも天のお父様に助けを求める、そして、こうした弱い立場にある人たちのために仕えなさいというイエスは言われる。
ケニアのマサイ族の人々は、牛や羊で生計を立てている人たちが殆どです。そうした生活にぴったりのイエスの言葉が、今日の聖書箇所のすぐ後に出てくる失われた一匹の子羊です。

18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

私たちも、100匹の羊のように、弱い存在ですが、神の子どもとして、すべて数えられている。したがって、群れからはぐれ,道からそれて行方不明になっても、天のお父様は、探し出してくださる。私たちは、子供と接することによって、そんな天のお父様の深い愛に気づかされる。

本日のタイトルは、知的障碍者施設である近江学園を創設されたクリスチャンの糸賀一雄先生の有名な著書「この子らを世の光に」を、無断で一部借用して「この子らが光に」にしました。弱い立場にある子どもたちの背後にイエス様の姿を見ておられた糸賀一雄先生の思いを込めて、表題にしました。
本日の午後に予定されているBadi族の子ども達も、弱い立場におかれて、人権侵害から守りを必要としている方々と聞いています。私たちは、身の回りの子ども達のほかに、国内、国外の弱い立場に置かれた子供たち(vulnerable children)に寄り添うことが求められます。また、子供に限らず、身の回りの助けを求めている人たちに寄り添い、主が私たちに仕えて下さっているように、私たちも人に仕えていきたいと願うものです。

5. 結論
イエス様が、神の子として、私たちを滅びから救い出すために、罪の身代わりとして十字架にかかっていのちを投げ出された、その限りない愛によって、私たちは、生かされている。だからこそ、私たちもまた、イエス様と同じように、多くの助けを必要としている人たちのために、命をかけて仕える生涯を歩ませていただけるのです。

マタイ20章27,28節
20:27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
20:28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。

ヨハネ13章14節
13:14しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。

(祈り)