ヨシュア記8:1-9 『⑨ 信仰者の逆転』 2019/08/18 松田健太郎牧師

ヨシュア記 8:1-9
8:1 【主】はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。
8:2 あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町の裏手に伏兵を置け。」
8:3 そこでヨシュアは戦う民すべてとともに、アイに上って行くために立ち上がった。ヨシュアは三万人の勇士を選んで夜のうちに派遣し、
8:4 彼らに命じた。「見よ、あなたがたは町の裏手から町に向かう伏兵だ。町からあまり遠く離れないで、みな身構えていなさい。
8:5 私と、私とともにいる兵はみな町に近づく。アイの人々がこの前と同じように、私たちに立ち向かって出て来たら、私たちは彼らの前から逃げることにする。
8:6 彼らは私たちを追って出て来るので、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは『この前と同じように、われわれの前を逃げて行く』と言うだろうから。私たちは彼らの前で逃げることにする。
8:7 あなたがたは伏せているところから立ち上がり、町を占領せよ。あなたがたの神、【主】がその町をあなたがたの手に渡される。
8:8 その町を攻め取ったら、その町に火を放て。【主】のことばどおりに行うのだ。見よ、私はあなたがたに命じる。」
8:9 ヨシュアは彼らを派遣し、彼らは待ち伏せの場所へ行き、ベテルとアイの間、アイの西側にとどまった。ヨシュアはその夜、兵とともに夜を過ごした。

前回は、ヨシュアたちがアイという町との戦いに敗れたという話しでした。
ヨシュアたちはどうして負けたのだったでしょうか?
第一に、彼らの仲間の中で、アカンという人物が神さまに背いたことが原因でした。
具体的には、聖絶といって完全に滅ぼしてしまわなければならないものを滅ぼさず、一部を勝手に隠し取っていたのです。
そこに神さまの怒りが燃え上がったため、彼らは戦いに勝利することができなかったわけです。

彼らが敗北した第二の理由は、彼らが戦いの司令官である神さまの命令を聞こうともせず、勝手に行動してしまったからでした。

神さまに背き、神さまに従わない時、私たちは神さまが与えてくださる勝利を手にすることができません。
それでは、私たちはどうすればいいのでしょうか?
今日は、私たちが勝利するために必要なことについて一緒に学んでいきたいと思います。

① 神さまと語る
さて、イスラエルがアイに敗北した時、ヨシュアは神さまに失望し、その時彼は信仰を失いそうな状態に陥りました。
先週も見ましたが、その時のヨシュアの様子をもう一度見てみましょう。

ヨシュア 7:7 ヨシュアは言った。「ああ、【神】、主よ。あなたはどうして、この民にヨルダン川をあえて渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼそうとされるのですか。私たちは、ヨルダンの川向こうに居残ることで満足していたのです。
7:8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができるでしょう。
7:9 カナン人やこの地の住民がみな、これを聞いて私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさるのですか。」

この時のヨシュアは、神さまを信頼することができない状態になっていましたが、彼の行動でひとつだけよかったことがありました。
それは、彼が神さまに語りかけたという事です。
それによってヨシュアたちは、自分たちの中にアカンという不信仰な者がいて、神さまが命じることに背いたということと、その罪によってアイに勝利することはできないということが分かったのです。

大切なのは、この時からヨシュアの心は神さまに向けられ、再び神さまの導きを求められるようになっていったということです。
アカンの背信は辛いことではありましたが、ここから状況がどんどん変わっていきます。
最初にアイと戦ったときには自分で判断し、偵察隊の報告に頼って決断をしていましたが、これ以降の記述では、必ず「神さまが語りかけ」、「ヨシュアたちがそれに従う」というパターンになっていきます。
これは、ここだけのことではなく、聖書全体に見ることができる必勝のパターンんです。

「神さまが語り」、「私たちが従う」。
これこそ人々の心が神さまに向いている状態で、あるべき関係が表されています。
しかし、神さまの語りかけがないのに人々が何かを行動するとき、そこにはいつでも罪が伴っていて、人々は間違った方向に進んでしまうのです。

もちろん、私たちも神さまの語りかけに耳を傾ける必要があります。
いつでも、どんな時でも神さまの声を聞き、それに従っているでしょうか?
指揮官に聞き、従わない限り、私たちは勝てる戦いにも勝つことはできないのです。

② アイの聖絶
さて、正しい司令官の指示を仰ぐようになった後のイスラエルは最強です。
神さまは、ヨシュアにこのように言います。

8:1 【主】はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。

偵察隊が調べた中では、3千人もいればアイを倒すことができるだろうと思われました。
しかし、神さまは全ての戦力を傾けて、アイを倒せと命じます。
その数は、最初の十倍の3万人に及びました。
アイの全住民を合わせて1万2千人。
エリコに比べれば小さい町でしたが、圧倒的な戦力によって倒すように命じられたのです。

神さまは、さらにこのように命じました。

8:2 あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町の裏手に伏兵を置け。」

さて、今回もエリコの時と同じようにすべての人々を聖絶するように命じられるのですが、少し違う所があります。
それは、この時には財産と家畜は戦利品としてよいと言われたことです。
エリコの戦いの時には、全てを聖絶しなければならず、それを破ったアカンは死ななければならなかったのに、今回はそれが許されているのです。
「さっきはダメだったのに今回は良いなんて、意味がわからない。神さまってそんなに気まぐれなのか? そして、そんな気まぐれでアカンは死ななければならなかったのか?」と思う人もいるようですが、そうではありません。
アイの文化はそこにあった物を持っている程度なら問題ないけれど、エリコはそこにある物を持っているだけでもイスラエルの人々を神さまから引き離してしまうほどの影響力があったという事です。

神さまは、無駄に人を殺したり、物を破壊することを命じる方ではありません。
人々に裁きを下すことは、神さまにとっても胸が引き裂かれるほどに悲しい事だからです。

③ エバル山
さて、戦いが終わった後、ヨシュアたちにはするべきことがありました。
それは、エバル山というアイからさらに北に上がったところにある山に登って、いけにえを捧げることです。

ヨシュア 8:30 それからヨシュアはエバル山に、イスラエルの神、【主】のために一つの祭壇を築いた。
8:31 それは、【主】のしもべモーセがイスラエルの子らに命じたとおり、またモーセの律法の書に記されているとおり、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で【主】に全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げた。
8:32 ヨシュアはその場所で、モーセがイスラエルの子らの前で書いた律法の写しを、石の上に書いた。

攻略しなければならない町が、まだ他にもあったにもかかわらず、ヨシュアがそれを放置してでもエバル山に行ったのはなぜでしょうか?
それは、今回の出来事を通して、モーセから命じられていたことを思い出したからではないかと思います。
モーセは、カナンに入った時のことについて、このように命じていました。

申命記 11:26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。
11:27 祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従った場合であり、
11:28 のろいとは、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。11:29 あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、【主】があなたを導き入れたら、あなたはゲリジム山の上には祝福を、エバル山の上にはのろいを置かなければならない。

神さまに背けば呪い、従えば祝福。
それはまさに、ヨシュアたちがアイ攻略の際に体験したことでした。
何度も話しているように、これは聖書全体を通して語られている真理です。

皆さんが受けたいのは呪いですか、それとも祝福でしょうか?
祝福を受けたいなら、私たちは神さまに従う必要があります。
そして、そのためには神さまに聞く必要もあります。

神さまから聞くということについて、皆さんがもっと知りたいと思っていたら、今何人かの人たちとやっている天外内トレーニングを通して学ぶことはお勧めです。
9月に入ったら、またいくつかのグループでやりたいと思っていますので、ぜひ声をかけてください。

祈りましょう。