ヨシュア記24:13-18 『⑭ 私と家族は主に仕える』 2019/10/14 松田健太郎牧師

ヨシュア記 24:13-18
24:13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』
24:14 今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、【主】に仕えなさい。
24:15 【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」
24:16 民は答えた。「私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。
24:17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。
24:18 【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」

今日が、この場所での最後の礼拝会ですね。
そして、ヨシュア記からのメッセージのシリーズも、今日が最後になります。

全ての地を手にしたわけではなかったものの、ヨシュアたちの戦いにはひとまずの決着がつきました。
カナンの大半はイスラエルの地となり、それぞれの部族に土地が割り当てられました。

その時ヨシュアは、シェケムという地に12部族の族長たちを集めて、イスラエルの民としての生き方をもう一度確認します。
そこで話されたことが、今日の聖書箇所で書かれていることですね。

① 神による
まず確認されたのは、彼らがどうやってその地を手にしたのかということです。
彼らが自らの力によって戦い、勝ち取ったのか?
「そうではない」というのが、ヨシュアの話でした。

ヨシュア 24:11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、
24:12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。
24:13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』

もちろん、ヨシュアたちは何もせずにすべてを与えられたわけではありません。
彼らは確かに、カナンの人々と戦ったわけですが、彼らの力によって勝利して勝ち取ったわけではなかったということです。

それでは、誰が戦ったのか?
それは、神さまですね。
イスラエルの人々がカナンの地に入って行ったとき、カナンの人々と戦ったのは神さまでした。
何の苦労もなかったと言えば、ウソになるでしょう。
しかし、だからこそヨシュアたちは、大きな犠牲を払うこともなく、アッという間にカナンの地を占領することができたのです。

私たちにも、いろいろなところで神さまが勝ち取ってくださったものがあるはずです。
私たちに苦労がなかったわけではありませんが、神さまが戦い、神さまが勝ち取って、私たちに与えてくださったものがあります。
それは経済的な必要が満たされていることかも知れませんし、今自分に与えられている立場かもしれません。
私たちはつい、その手柄を自分のものとしてしまいがちです。
そして、まるで自分がかんばって神さまのために仕事をし、神さまに献金や労働力を捧げ、何もできない神さまを助けてあげているかのような錯覚に陥ってしまうのです。

私たちが手にするものの多くは、神さまの助けなしには手にすることができなかったものです。
神さまが私たちを助け、私たちのために戦って下さったから、手にすることができたものなのです。
私たちは、謙遜な思いを持って、神さまに仕える必要があります。
神さまが私たちを支え、力を与え、助けて下さったことを忘れないようにしましょう。

② 誠実と真実をもって
ヨシュアは、イスラエルの人々にこのように告げています。

24:14 今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、【主】に仕えなさい。

「主を恐れる」というのは、「神さまこわーい」と思うことではありません。
「主を恐れる」というのは、神さまを誰よりも、何よりも大切にし、第一にするということです。
神さまを軽く見てはダメだという事ですね。

「誠実と真実をもって主に仕え」るというのは、心を尽くして、嘘偽りなく神様に仕えるということです。
誠実さや真実に欠けた信仰は、偽善的な信仰です。
人前では信仰深い人のようにふるまうけれど、一人でいるときは神さまのことなんて忘れてしまうのは、神さまとの関係ではなく、ひと目や宗教活動に熱心になっているという事です。
私たちに必要なのは、宗教ではなく神さまとの生きた関係ですね。

ヨシュアのこの言葉は、イエスさまが話した、他の言葉に置き換えることもできます。

ルカ 10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

ヨハ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

私たちは、いつでも神さまに恐れを持ち、誠実に、真実を持って仕えていきたいですね。

③ 私と家族は主に仕える
「あなたたちは、神さまにそんな風に仕える意思や決意があるか?」と、ヨシュアは問いかけます。
私たちはどうでしょう?
神さまとの関係を、本当に大切なものとしているでしょうか?
ヨシュアはこのように言います。

24:15 【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」

「あなたたちが、神さまではなく、他のものに目を向けて頼りにしたいなら、そのようにしなさい。でも、私と家族は何があっても神さまに従う。」
これが、ヨシュアの宣言です。

これは、私たちに問われていることでもあります。
私たちは、誰に仕えるのでしょうか?
神さま以外の何かに対して、神さま以上により頼むなら、私たちは偶像に仕えようとしているということです。
神さまですか?
それとも、神さま以外の何かでしょうか?

ヨシュアの宣言に対して、イスラエルの民、族長たちはこのように応答しています。

24:16 民は答えた。「私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。
24:17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。
24:18 【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」

族長たちはこのように宣言しましたが、イスラエルの人々は、やがて神さまから離れていったことが、士師記の中で記されています。
私たちに必要なのは、単にこのような宣言を唱和することではないということです。
心から、そのように思い、苦難の時も、喜びの時も、神さまと共に歩み続けていけるかどうかという事です。

また、今そう思えていれば大丈夫というものでもありません。
自分と神様との関係を常に見直し、神さまに立ち返る必要があります。
まずは、今の自分の信仰の状態に目を留めることが大切です。
そして、日々神さまとの関係を深めていくことです。
神さまから離れてしまっていることに気づいたなら、神さまに立ち返ることです。
神さまからすぐに離れてしまう、罪の性質を、私たちは持っているからです。

明日は葛西から引っ越し、新しい場所に移ります。
今日、神さまとの関係を見直す機会としてみましょう。
私たちがいつでも、真心で神さまに仕えることができますように。

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