士師記9:1-6 『王を求めるということ』 2019/12/8 松田健太郎牧師

士師記 9:1-6
9:1 さて、エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。
9:2 「どうかシェケムのすべての住民の耳に告げてください。『あなたがたにとって、エルバアルの息子七十人全員であなたがたを治めるのと、ただ一人があなたがたを治めるのとでは、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こすがよい』と。」
9:3 アビメレクの母の身内の者たちが、彼の代わりに、これらのことをみな、シェケムのすべての住民の耳に告げたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らが「彼は私たちの身内の者だ」と思ったからである。
9:4 彼らは、バアル・ベリテの神殿から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、粗暴なならず者たちを雇った。彼らはアビメレクに従った。
9:5 アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末の子ヨタムは隠れていたので生き残った。
9:6 シェケムのすべての住民とベテ・ミロのすべての人々は集まり、行って、シェケムにある石柱のそばの樫の木の傍らで、アビメレクを王とした。

士師記からのシリーズ7回目は、「王様」について考えます。
ここしばらく、日本では天皇陛下の即位式があったり、ローマ教皇が来日したりといろいろありましたね。
どちらも、「王様」というものとは違うかもしれませんが、共通点もあるように思います。
そして私たちは、聖書で描かれている「王様」を通してどのようなことを学べるのでしょう?

① アビメレク
士師記の時代には、「さばきつかさ」という人たちが活躍します。
さばきつかさというのは、イスラエルが危機の時に与えられる、神さまが選んだリーダーたちです。
一時的にイスラエルを治めるのですが、王様とは違い、平和な時には何もしません。
また、税金を取り立てて、それによって国を動かすということもしないんですね。

戦いのときに活躍する将軍や勇者のような人たちが、さばきつかさです。
士師記には13人のさばきつかさが出てきますが、これまでオテニエル、エフデ、シャムガル、デボラ、バラク、そしてギデオンという6人についてお話をしてきました。
今日は残り7人の内6人の話をするのですが、その前に別の人の話をしなければなりません。
それは、前回のお話に出てきたギデオンの息子、アビメレクです。

アビメレクはさばきつかさではありません。
アビメレクは、シェケムという町で王となり、3年間イスラエルを支配したのです。
さばきつかさではないということは、神さまによって選ばれたのではないということです。
勝手に名乗り出て、人の心を誘導し、王となってしまったのです。

実は父親のギデオンも、戦いに勝って英雄となった時、人々から王になるようにと求められていたことがありました。
その時ギデオンは。このように答えています。

士師記 8:23 しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。【主】があなたがたを治められます。」

これが、イスラエル人のあるべき姿勢です。
イスラエルの王は、他の誰でもない、神さまです。
神さまが治める国であることが大切だったのですが、皮肉なことに、「私も息子も王にはならない」と言っていたギデオンの息子が、勝手に王となってしまったのです。

王になるため、アビメレクはシェケムの人々を騙し、70人もいたギデオンの子どもたちを皆殺しにしてしまいました。
そして最後には、シェケムを焼き尽くし、自分自身もシェケム人によって殺されることになります。
アビメレクは、自らの手で力を手に入れて王となり、治めていたシェケムも、自分自身も滅ぼすことになってしまったのです。

② エフタ
アビメレクが死んだあと、次のさばきつかさが起こされます。
6人のさばきつかさですが、それぞれトラ、ヤイル、エフタ、イブツァン、エロン、アブドンと言います。
でも、実はその内の5人は、ほとんど名前が紹介されているだけなんです。
さばきつかさとして選ばれたものの、それほど大きな働きはしなかったということなのかもしれませんね。

その中で、唯一詳細に触れられているのは、エフタです。
エフタは、アンモン人からイスラエルを守ったさばきつかさです。
エフタは遊女の子どもだったために追い出されましたが、アンモン人が襲ってきた時、勇士だった彼は人々から求められてさばきつかさとなりました。

しかし、注目ポイントは、彼がアンモン人に勝利したというところではありません。
エフタが戦いの前に誓ったことが、問題となっているのです。

士師記 11:30 エフタは【主】に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、
11:31 私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を【主】のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」

とんでもない誓願ですね。
「私を勝たせて下さったら、家に帰った時に最初に出てくる者を生贄として捧げるというのです。
人を生贄として捧げることは、この当時の社会ではよくあることでした。
しかし、もちろん神さまがそんなことを喜ぶはずがありません。
エフタは異教の信仰に感化されて、間違った誓願を立ててしまっていたのです。

エフタは勝利して、喜びの中で凱旋し、家に帰ります。
彼の帰りを真っ先に迎えた人の顔を見て、彼はハッとします。
エフタの勝利を喜んで、タンバリンを持って出迎えたのはなんと、彼の娘だったのです。
まさか娘が出てくるとは思っていなかったのでしょうね。
しかし、神さまの名前によって誓ったことは、曲げることができません。
こうしてエフタは、自分の娘を生贄として殺さなければならなくなったのです。

③ なぜ王を求めてはならないか
士師記を読んでいて、気づくことがあります。
それは、最初の内はさばきつかさは神さまによって選ばれ、人々のもとに送られていましたが、ギデオンのあたりからその様子が変わってくるということです。

ギデオンが勝利した時、人々は自分たちを治めて王となるように、彼に求めました。
ギデオンは断りましたが、彼の息子アビメレクは、他の兄弟を皆殺しにしてまで、自分が王になろうとしました。
自分がなりたいと思っただけでは、彼が王になることはできなかったでしょう。
その背景には、人々が彼に王になることを求めたということがありました。
しかし、アビメレクを王にしてしまったために、彼らは自分の町が焼かれることになってしまったのです。

エフタもまた、人々から求められてさばきつかさとなりました。
最初は遊女の子どもだからと追い出されたのに、彼の強さを頼りにして、人々は彼をリーダーとして求めたのです。
彼は王ではありませんでしたが、人から求められたリーダーでした。

なぜ人は、王のような存在を求めるのでしょうか?
その背後には、責任を回避するために、誰かに決断を任せ、楽をしたいという思いがあるように思います。
自分で考え、行動の責任を負い、進む道を決めていくより、誰かほかの人に決めてもらった方が楽だからです。

皆さんは大丈夫でしょうか?
皆さんの中には、そのような願望はありませんか?

政治家や団体に、国の行く末の判断を押し付けて、責任を回避しようとしてはいないでしょうか?
神さまとの関係はどうでしょう?
牧師を王にして、牧師から教えられるままになり、牧師の言葉に従おうとしてはいないでしょうか?
カルトグループにはそのような傾向がありますが、それは神さまに従っているのではなく、牧師に従っているのです。

自分で考える必要がないので、言われることに従っているだけの生き方は楽です。
でもそれは、私たちから判断力を奪い、神さまの声を自分の力で聞けなくしてしまいます。
政治家であれ、社長であれ、牧師であれ、私たちが誰かを王にしてはならないのです。

人は、アビメレクのように権力に取りつかれます。
そして人は、エフタのように判断を誤ります。
私たちの王は、そのような人ではなく、神さまご自身なのだということを、決して忘れてはならないのです。