士師記13:1-5 『召しに背くとき』 2019/12/15 松田健太郎牧師

士師記 13:1-5
13:1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。
13:2 さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。
13:3 【主】の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。
13:4 今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。
13:5 見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

士師記の最後を締めくくるのは、13人目のさばきつかさ、サムソンです。
今日は、サムソンの話を通して、自分に与えられている「召し」について考えてみたいと思います。

そもそも、「召し」とは何でしょう?
召しとは、神さまからある目的のために選ばれて、「それをしなさい」と命じられていることです。
今やるべきこととして、神さまから「これをしなさい」と言われることはたくさんあると思いますが、「召し」というのは多くの場合、その人の人生そのものや生き方に関わるような、大きなことに対して使われることが多いように思います。

だから、「牧師としての召しを受ける」というような言い方をするわけですね。
私たちは、神さまの計画の中で目的に従ってデザインされていますから、それぞれに「召されている」ことがあるのではないかと思います。
でも、自分の召しを意識して生きているクリスチャンは、残念ながらそれほど多くないような気がします。
皆さんはどうでしょうか?

① 生まれながらのナジル人
さて、サムソンは生まれながら特別な使命を持って生まれ、育てられました。

「見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。」(士師記13:5)

という、主の使いの言葉がありました。
ナジル人というのは、特別な誓約を立てて、特定の期間まで髪を切ったり、葡萄酒を飲まない人たちです。
けがれてしまうので、死体などにも触れてはならず、例え親の亡骸でも触れてはならないと言われていました。
ナジル人の元々の意味は、「聖なるものとして分けられた人」というような意味です。

サムソンの場合は、生まれる前から母親によって誓約が立てられて、特別な使命を受けて生まれてきました。
その使命が何だったかということは、明確には書かれていませんが、恐らくペリシテ人を倒すさばきつかさとしての使命を受けて生まれてきたのだと思います。
サムソンには、戦うための怪力が与えられていました。
普通では考えることができないような、スーパーマンのような怪力です。
その力でイスラエルを護ることが、恐らく彼に与えられていた役目だったのでしょう。

後の時代、バアルの預言者たちと戦った預言者エリヤや、イエスさまの少し前に生まれたバプテスマのヨハネも、サムソンと同じ生まれながらのナジル人でした。
彼らは毛皮を着て、イナゴなどを食べて暮らしていました。
その生活そのものにどんな意味があったのかはわかりませんが、一見して特別な人だということがわかりますよね。
彼らはそのような生活を守るとともに、神さまから与えられた使命に忠実に従って生きた人々でした。

しかし、サムソンはどうだったでしょう?
彼は、生まれながらナジル人として育てられ、特別な使命を帯びていたにもかかわらず、そのことに関しては全く無頓着でした。

サムソンは、ナジル人であるにも関わらず酒を飲み、死体に触れることにも無頓着で、異邦人であるどころか、彼が戦って滅ぼさなければならなかったペリシテ人の女に惚れて嫁にしてしまいました。
そのためもあって、彼には敵を倒すような力があったにもかかわらず、敵であるペリシテ人とは積極的に戦おうとしませんでした。
彼には、自分に特別な力が与えられ、特別な目的のために召されているという自覚がなかったのです。

私たちはどうでしょうか?
私たちひとりひとりにも、それぞれに与えられている能力があり、召しがあります。
皆さんには、その自覚がありますか?
私たちもまた、サムソンのように、神さまが与えた使命を無視して、自分の好きなことだけをして、欲望のままに生きているということはないでしょうか?
私たちが生きる意味や目的を、もう一度考えてみる必要があるのかもしれませんね。

② 召しに背いたサムソン
それでは、召しに背くとどんなことが起こるのでしょうか?
ペリシテ人を倒すように召されていた人が仕事をしなかったら、イスラエルはペリシ人に支配されて終わってしまいそうなものです。
ところが、そうはなりませんでした。

怪力のサムソンを恐れて、ペリシテ人たちの側から、サムソンを捕えようとするようになったのです。
普通に戦ったのでは勝ち目はありません。
ペリシテ人たちは、ペリシテ人であるサムソンの妻を通して彼の弱点を聞き出します。
そしてついに、その力の源は神さまに誓約を立てている髪の毛にあることがわかると、彼が寝ている間に髪の毛を切ってしまったのです。

力を失ったサムソンは、あっけなくペリシテ人たちに捕らえられてしましました。
サムソンはペリシテ人たちによってあざけられ、罵られ、痛めつけられました。
ペリシテ人たちは神さまの名を汚し、自分たちの神を称えました。

しかし最後の瞬間、サムソンは神さまの前に悔い改め、祈りました。

士師記 16:28 サムソンは【主】を呼び求めて言った。「【神】、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」

すると、彼は再び力を取り戻しました。
サムソンはその怪力で、神殿を支えていた柱を倒してしまします。
たちまちのうちに神殿は崩れ、サムソンも、そこにいたペリシテ人たちも死んでしまいました。
こうして、イスラエルは救われることになったのです。

サムソンは、神さまに背いてその責任を放棄していましたが、それでも神さまの計画は実現し、イスラエルは守られました。
このように、たとえ私たちが神さまに従わなかったとしても、神さまの計画は必ず実現します。
聖書にはこのような言葉があります。

箴言 19:21 人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する。

また、このような言葉もあります。

マタイ 3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

例え私たちが何もしなくても、神さまが計画したことは必ず実現します。
では、私たちは何もしなくてもいいということかというと、そうではありませんよね。
神さまの召しをないがしろにして、自分の欲望のままに生きようとしたサムソンは、とても残念な生涯を送り、ついに悲惨な死に方をしてしまいました。

確かに目的は果たされたかもしれませんが、ペリシテ人はこれで全滅したわけではありません。
サウルやダビデの時代にも、長きにわたりイスラエルを苦しめることになったのです。
もしもサムソンが、神さまの召しに従う生き方をしていたら、ペリシテ人の聖絶はここで終わっていたかもしれません。
そのための怪力であり、そのための選びだったはずです。

神さまの召しに生きることは、確かに楽な生き方ではないでしょう。
そのために、自分の欲望に任せて生きることも諦めなければなりません。
でも、私たちが神さまに従い、自分の召しに従って生きるとき、私たちは自分のポテンシャルを最高に活かすことができるのです。
それは、自分の欲望に任せるよりももっと喜びに溢れた生き方です。

神さまは、皆さんに何を命じていますか?
神さまは、どのようなことに皆さんを召しているでしょうか?
どうせ生きるなら、自分に与えられている可能性を最大限に生かす生き方をしてみませんか?
その時、私たちの人生は輝き始めるのです。

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