マルコ1:16-20 ⑤『キリストの弟子として生きる』 2020/02/09 松田健太郎牧師

マルコ 1:16-20
1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
1:19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
1:20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

今日は、イエスさまが弟子たちと出会う話です。
マルコの福音書には、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちの出会いがさらっと書かれているだけですが、聖書には他の弟子たちの出会いについても書かれています。
今日は、弟子たちとイエスさまの出会いに焦点を当てて、イエスさまの弟子について考えてみたいと思います。

① シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ
まず、シモンとアンデレという兄弟たちから見ていきましょう。
この話を読んでいると、イエスさまは唐突にシモンたちのところに現れて、声をかけると、彼らは網を捨ててついていったみたいな感じに見えますね。

工事現場で働いていたらおじさんがやってきて、「人間の誘導係にならせてあげよう」とか言ったら、誘導灯を置いてついて行った。
コンビニでバイトしていたら、イエスさまが缶コーヒーか何かをカウンターに置いて、「人間のレジ打ちをする人にならせてあげよう」とか言われて、ピッってするやつを置いてついて行った。
そう置き換えてみると、この話がどれだけ唐突で、不自然なことだったかがわかります。
でも、実際にはそれ以上のことが起こってました。

ヨハネの福音書を読んでいてわかることは、シモンとアンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子たちだったということです。
バプテスマのヨハネがイエスさまを指さして、「あの方こそが聖書の教える救い主だ」と言っていたのを、彼らは聞いていたわけです。
それを聞いたアンデレが、兄のシモンにイエスさまを紹介したという出来事が、ヨハネの福音書に記されています。

その後、ガリラヤ湖で魚を取っていたシモンたちの前にイエスさまが再び現れます。
一晩中魚が取れなくて疲れ果てていたシモンに、イエスさまは一言アドバイスします。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)
すると、船に載せきれないほどの大量の魚が捕れた。
その流れの中での、この言葉です。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)

彼らがバプテスマのヨハネの弟子として、人々を導くことに興味を持っていたこと、師であるヨハネが捕らえられ人生の目標が分からなくなっていたこと、そしてイエスさまが見せた奇跡を通して、彼らはイエスさまの弟子になる決意をしたわけです。
その流れの中で、その様子を見ていたヤコブとヨハネという兄弟も、イエスさまの弟子として招かれ、イエスさまに従うものとなりました。

十二使徒と呼ばれるようになる人たちの中には、他にもピリポやナタナエル、マタイがイエスさまと出会った時のことが書かれていたりしますが、今回はここまでにしましょう。

しかし、人々がイエスさまの弟子になる過程には、ある程度のパターンがあります。
それは、イエスさまが「私とともに来なさい」と招き、応答しているということです。
そして、イエスさまに応答する過程や、応答した結果として、彼らはイエスさまの御業を目の当たりにして、神さまを体験していますよね。
そのような経験を通して、人々はイエスさまの弟子となっていくのです。

皆さんは、イエスさまの招きを聞きましたか?
そして、それを受け取ったでしょうか?
その過程で、あるいは結果として、どのような神の御業を体験したでしょう?
もしまだなら、来て、見てみませんか?
イエスさまは、皆さんを招いておられるからです。

② イエスさまの弟子として生きるということ
さて、それでは、イエスさまの弟子として生きるとは、具体的にはどのような生き方をするということなのでしょうか?
ついていくと決心したものの、どうしていいかわからないということがあるかもしれませんので、少しお話しておきたいと思います。

弟子として生きるとは、第一に私たちが師であるイエスさまに似た者となっていくということです。
イエスさまはこの様に言っています。

「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイ10:24-25)」

親が子に似るように、ペットが主人に似るように、弟子も師に似た者となっていきます。
そして、共にいる時間が長ければ長いほど、より似姿に近づいていくのです。
イエスさまが愛したように愛し、イエスさまが赦したように赦すものとなりましょう。
イエスさまが仕えたように人々に仕え、イエスさまが伝えたように福音を伝えるのです。

第二に、イエスさまの弟子として生きるためには、自分を捨てて従わなければならないということです。

「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイ 16:24)」

今日お話しした中でも、弟子たちはこれまでやってきたことを捨ててイエスさまについていったことが書かれていました。
もちろん、弟子となった人たちの中には、故郷に帰ってイエスさまのことを宣べ伝えたゲラサの墓場にいたような人たちもいれば、今いる場所に留まって人々に仕えたマルタとマリアのような人たちもいます。

弟子になることがイコール仕事を捨てることとは限りませんが、それでも自分自身を捨ててついていく必要が、私たちにはあるのです。
これは、かなりハードルが高いですね。

この言葉はマルコの福音書の中にもあるので、別の機会にももっと詳しくお話ししますが、私たちは自分を捨てて、自分の十字架を負うことなしにイエスさまの弟子となることはできません。
イエスさまの似姿に変えられていくということもないでしょう。
なぜなら、私たちは生まれながらにして罪人だからです。

私たちが、今までと同じ価値観を持って、同じことを続けていく限り、私たちの人生が変わることは絶対にありません。
人生が変わるためには、私たちはまず行動を変えなければならないのです。
そのために大切なのは、私たちがイエスさまに聞き、イエスさまに従うことです。
その導きが私たちの願いと違っても、私たちが神さまの導きを優先しなければなりません。
今日の聖書箇所でイエスさまと出会った人々がそうだったように、全てを捨てて従うことが求められることもあるでしょう。

ただ教会に通っているだけでも、クリスチャンと名乗ることはできます。
全てにおいて従うのでなくても、天国行きの切符を失うことはないかもしれません。
でも、それだけでは、「私はイエスさまの弟子です」と名乗ることはできません。
そして、イエスさまに従って生きていくなら、イエスさまの弟子として生きなければ味わうことができない喜びを味わうことができるのです。

イエスさまの弟子として生きることは、私たちに与えられているチャレンジです。
僕自身も、完成された弟子というわけではなく、そのチャレンジのさなかにあります。
皆さんも、一緒にキリストの弟子として歩み始めませんか?
「ただのキリスト教徒」ではなく、「ただ救われた人」ではなく、「キリストの弟子」として生きませんか?

弟子として生きたいけど、どうすればいいか分からないという方がいらっしゃったら、いつでも声をかけてください。
教え合い、励まし合いながら、共に弟子として生きていきましょう。