マルコ1:21-28 『権威ある新しい教え』 2020/02/16 松田健太郎牧師

マルコ 1:21-28
1:21 それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
1:22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
1:23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
1:24 「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
1:26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
1:28 こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。

マルコの福音書からのゆっくり解説をしながらお話をしています。
今日は6回目ですね。
これまでのお話が気になる方は、教会ウェブサイトから過去のメッセージを見ることができますので、ぜひご覧ください。
前回は、イエスさまが弟子たちを集めていく話でした。
そして、キリストの弟子として生きるとはどういうことかという話とともに、皆さんにチャレンジを与えさせていただきましたね。

さて、弟子たちが集まってくると、イエスさまはカペナウムという町に入ります。
カペナウムというのは、ガリラヤ湖の北側の沿岸にある町です。
この町の名前は福音書の中では何度も出てくるくらい、イエスさまが出入りした町ですね。

イエスさまは早速会堂に行って、教えられたと書かれています。
ここに書かれている「会堂」というのは、教会堂のことではありません。
シナゴーグと言って、ユダヤ教の集会所みたいな所ですね。

この日は安息日でしたから、会堂では聖書の朗読や教えがされていました。
イエスさまはそこで教えられ、それを聞いた人々は驚いたと書かれています。
さすがイエスさま、すごいですね。
でもこれ、何かおかしいと思いませんか?

イエスさまはカペナウムの住民ではありません。
人々の反応を見ていると、イエスさまがここで話をされたのは初めてだろうと思います。
イエスさまが突然この集会所に現れて、勝手に教えているんです。

教会に今、知らない人が入ってきて、「ちょっとどいてください」とか言って僕はどけられて、その人が突然「皆さん、聖書にはこのように書かれています」と話し始めたらどうですか?
そのような状況が、まさにこの時には起こっていたことになります。

でも、実はそのようなことはシナゴーグでは当たり前のことなのです。
シナゴーグはみんなに開かれている場所なので、いろいろな人たちが入ってきて、突然話をすることは日常茶飯事でした。
なんだったら、今会堂に入ってきた方に聖書を渡して、「ここを朗読してください」みたいな感じで集会は進んでいきます。

ユダヤ人は議論が大好きですから、聖書の朗読だけでなくそこから持論の展開が始まったりします。
すると会衆たちからヤジが飛んだり、「それは間違っている!」と反対意見が展開されたり大騒ぎになります。
それがユダヤ教の安息日の礼拝だったりするわけです。
礼拝のイメージが、だいぶ違いますよね(笑)。

実はこの雰囲気、僕はツイッターやFacebookグループに似ているなぁと思ったんです。
SNSでは、牧師やクリスチャンたちは議論ばっかりですよ。
見ていてあまり気持ちの良いものではないのですが、実は案外聖書的と言うか、ユダヤ教的なのかもしれないですね。

ユダヤ教の人たちの議論には、ある程度の枠組みがあります。
それは律法学者たちの教えを基準に話しているということです。
もちろんそれは、聖書に書かれている律法がベースにはあるのですが、実際には律法の言葉に対する学者たちの教えに基づいた議論です。

「○○先生はこのように言った」「○○という律法学者はこのように解釈している」と言った具合です。
ところが、そんなユダヤ教徒たちを黙らせるような出来事が起こりました。
イエスさまが話を始めると、みんなうなって何も言えなくなってしまったのです。
それは、イエスさまの話が明らかに他の人々とは違っていたからです。

マルコ 1:22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

「○○先生がこう言っていた」ではなく、「父はこのように言っています」なのです。
そりゃそうですよね、イエスさまは神さまなので、権威がある者として教えるわけです。
しかもそれは、律法学者たちが教えていたこととはかなり違うものでした。
律法学者たちの教えは、「この律法はこうしなければならない。そして、このようにすれば守ることができる」みたいなことばかりです。
しかしイエスさまは、「神を愛し、人を愛することが父の心です」と言いました。
それは確かに聖書の言葉でしたが、人々には全く新しい響きを持って、心に届いたのです。

言葉だけだったら、人々の心はそれほど大きく動かされなかったかもしれません。
口が達者な人は他にもいたでしょう。
しかし、そこにはこのようなことも起こったのです。

マルコ 1:23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
1:24 「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
1:26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。

この汚れた霊に取りつかれた人が誰だったのかはわかりませんが、この町の人たちにはよく知られていただろうと思います。
その場にいた人たちは、「またあいつが騒ぎ始めた」くらいに思っていたかもしれません。
ところが、イエスさまが彼を叱りつけると、悪霊がこの人から出て行ってしまったのです。

おかしくなったと思った人から悪霊が出て行って、正気に戻るのを目の当たりにした人々は、驚きを隠せませんでした。

マルコ 1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」

この出来事から学ぶべきことが3つあるなぁと思いました。
ひとつは、律法学者の言葉ではなく、権威ある方の言葉に従おうということです。

先ほど、SNSの牧師やクリスチャンたちの話をしましたが、「ルターは…」とか、「○○神学では…」とか、「○○教会の○○先生が…」みたいな話が本当に多いです。
先人から学ぶことも悪いことではありませんが、本当に大切なのは、権威ある方、イエスさまの言葉に耳を傾け、従うことだと思います。
神さまは、あなたに何を語っているでしょうか?
あなたは、それに対して、どのように反応しますか?
私たちは、何よりも神さまの言葉を大切にするものでありますように。

ふたつ目に、行動が伴うということです。
神の子であるイエスさまには、力が伴いました。
私たちも、イエスさまに従って行動するときには、そこに力が伴います。
そのためにまず大切なのは、言葉だけでなく、行動をもってそれを示すということです。

私たちは、言葉だけで、「聖書にはこう書かれてある」「イエスさまはこう言った」ということになってしまいがちです。
私たちは、行動をもって愛を表す必要があります。
私たちは、行動を持ってこの世界を光で照らしていく必要があります。
私たちは、行動を持って仕え、福音を伝えていく必要があるのです。

そしてみっつ目に、新しいものを恐れないということです。
この時、カペナウムの人々が目撃したのは、神の権威であり、新しい教えでした。
イエスさまはどの町よりも、このカペナウムに立ち寄り、この地域の人々に伝え、御業を起こしました。
しかし、イエスさまは後に、カペナウムについてこのように言っています。

マタイ 11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。

それは、これほどたくさんの力ある業を目にし、これほど何度も福音が伝えられていたのに、カペナウムの人々はイエスさまに応答しなかったからです。

罪人であるということは、どこまでも愚かで、恐ろしいものだと思います。
人々は、救い主をその目で見ておきながら、それでも救いを受け取らなかったのです。
それは、イエスさまの教えが新しい教えだったからではないかと思います。
私たちは、新しいものを本能的に恐れます。
罪人の私たちは、心のどこかで罪の中から自由にされることをおそれ、しがみついてしまっているのではないでしょうか?
それが新しいものであろうとなかろうと、権威と力があるイエスさまに従っていこうではありませんか。

祈りましょう。

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