マルコ3:7-19 ⑭『神さまが選ぶ人々』 2020/05/11 松田健太郎牧師

マルコ 3:7-12
3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
3:9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。
3:10 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。
3:12 イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。
3:13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
3:14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
3:15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
3:16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
3:17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
3:18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。

今日は、神さまはどういう人たちを選ぶのかということを一緒に考えていきたいと思います。
少し前回のお話をおさらいしておきましょう。
前回は、安息日の時の出来事でしたね。
そこには、イエスさまが安息日に人を癒すかどうかを見極めて、イエスさまを訴えようとする人たちがいました。

イエスさまに敵対する人たちの多くはどういう人たちだったかというと、パリサイ派や律法学者など、宗教的な人たちです。
彼らは聖書も読み、勉強もたくさんする賢い人たちでした。
しかし宗教的な正しさを求める中で、自分たちを正統とし、自分たちの考えとは違うイエスさまを認めようとはしなかったのです。

一方、今日の箇所にはたくさんの人たちがイエスさまについて行ったことが描かれています。
その数があまりにも多すぎて、イエスさまはガリラヤ湖の岸辺にいる人々に向かって、小舟の上からみんなに話さなければならないほどでした。
そこに集まっていたのは、どんな人たちだったでしょうか?
それは、病気に悩む人たちや、悪霊に取りつかれた人たちです。
そして、人々に取りついた悪霊たちが「あなたは神の子です」と騒ぐので、イエスさまはそのことを知らせないようにと厳しく戒めなければなりませんでした。
彼らがそのように騒げば騒ぐほど、イエスさまを敵視する人たちの妨害も大きくなってしまうからです。

まずここで大切なのは、「イエスさまを求める人たちはどういう人たちだったか」ということです。
イエスさまを求め、必要とするのは、病や悪霊に取りつかれるなど、痛みや苦しみ、問題を抱えた人たちでした。

Graphic recorder: Hitomi Kobayashi

私たちは、痛みや苦しみを抱えるとき、「なんで自分ばかりがこんな目に合うんだ」って思うのではないでしょうか?
痛い思い、辛い思い、苦しい思いをするのは誰でもいやです。
でも、そのことを通して拓かれる道もあります。
苦しい体験があったから、見出せる存在があります。
もちろんそのために苦しい思いをするわけではありませんが、どんな苦しみも、無意味ではないということなのです。

さて、その後イエスさまは、弟子たちを集め、十二人を選んで使徒として任命します。
何のためだったかというと、

3:14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
3:15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

と書かれていますね。
彼らは、イエスさまのそばに置かれ、イエスさまがすることをいつも間近に見ることができました。
イエスさまは、そのようにして次のリーダーを育てていったわけです。

さて、イエスさまはどのようにしてこのリーダーたちを選んだでしょうか?
リーダーシップを持っていたり、知恵や知識を蓄えていたり、力や能力のある人たちを選んだのでしょうか?
でも、考えてみてください。
イエスさまの周りに集まってきた人たちは、そもそも痛みや問題を抱えた人たちばかりです。
そこには勝手についてきた人ばかりでなく、イエスさの方が声をかけた人たちもいましたが、彼らも能力的に優れていたというわけではありません。
魚が取れなかった漁師や、嫌われ者の取税人、危険人物の熱心党や、短気でけんかっ早いかみなりの子、そんな人たちばかりです。
そして使徒たちの中には、イエスさまを売ってしまうユダの姿もありました。

多くのたちには、「清く、正しく、美しく生きている人たち」がクリスチャンになるのではないかという思い込みを持っています。
皆さんはどうでしょうか?
でも実際には、けがれ、悩み、問題を持った人たちがイエスさまを見出し、クリスチャンになりました。
能力が低かったり、人から嫌われていたような人たちが、イエスさまによって選ばれたのです。

パウロはこのように言っています。

1コリント 1:26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
1:28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

私たちもそうです。
私たちがイエスさまに選ばれて、今クリスチャンとしてこんな風に集まっているのは、私たちが有能で賢いからではありません。
力がなく、時には人から侮られ、バカにされるような弱点も持っているけど、だからこそイエスさまの選びが私たちの上にあったのです。

そして、そんな私たちがイエスさまと共に歩むとき、新しい命に歩む者へと返られていくのです。
安心して、また自分を誇ることなく、イエスさまと共に歩んでいきましょう。
そこには、私たちが自分だけでは絶対に体験することのできない喜びがあるからです。