マルコ4:35-41 ⑳『嵐の中の平安』 2020/07/12 けんたろ牧師

マルコ 4:35-41
4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

復習:冒頭の「その日の夕方」というのは、これまで話していた「たとえ話」を話していた日の夕方ということ。それは時間的経過というだけのことではなく、この一連の出来事が繋がりを持っていることを意味している。
たとえ話で話したことに関係のあることを、今日の出来事の中で体験させたのである。

① 自分の力ではどうにもできないことを知る
今回の出来事のポイントがいくつかある。
第一に、弟子たちの大半は漁師だったということ。
彼らにとっては自分の庭にも近いガリラヤ湖で、自信をもって操作できる小舟に乗っている時にこの出来事は起こる。
彼らにとってもコントロールできないほどの嵐が来て、小舟が転覆しそうになり、彼らはパニックに陥ってしまう。

イエスさまはこれまでは、「神の国に入りなさい」という話をしてきた。
そして神の国に入るなら、どんな時でも大丈夫だということを聞いてきたし、体験していたはずだった。
しかし、この時弟子たちは「大丈夫」と思うことができなかった。
それは、ガリラヤ湖で舟を操るということが、彼らにとって得意なことだったからである。
これまでは自分の力でやってきた自信のあることだったので、それができなかったとき、彼らはパニックを起こしてしまったのである。

大切なのは、自分の力に頼るのではなく、力を抜いて、神さまに従い、寄り頼むこと。
必要なことは神さまが教えてくれる。
神さまに従うなら、どんな時でも大丈夫なのである。

② イエスさまが沈黙するとき
この時、イエスさまは小舟の中で眠ってしまっていた。
指示を聞きたくても聞くことができなかったこの状況が、弟子たちの不安をさらに大きくしたことだろう。

私たちが神さまに尋ねるときにも、神さまが沈黙する時がある。
そんな時に不安になってしまうかもしれないが、それは逆に心配しなくても大丈夫だということの証。
私たちにも、何もせずにただ委ねて待つべき時がある。
もちろん、多くの場合は自分の最善を尽くしてするべきことをする必要があるが、何もするべきではない時もあるのである。
そんな時は、イエスさまがしたように嵐の中でも寝ていればいい。
「神さまは頼りにならない」と判断して自分の力で解決しようとするなら、私たちも弟子たちのようにパニックに陥り、神さまのせいにするようになる。

③ 嵐の中の平安
「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と、イエスさまは言った。
神さまと、神の国の力を本当に信じるなら、私たちは何も恐れる必要はない。
どんな時でも、(例え命が奪われるとしても)大丈夫だということを知ることができる。

しかし弟子たちの中には恐れがあった。
その恐れは、イエスさまに対しても向けられた。
私たちは、自分の力ではどうにもならない、どうすることもできないことを恐れる傾向がある。
しかしむしろ、自分を超えたところにこそ平安がある。
自分の無力さを知り、全てを委ねるなら、そこに神の国が働くからである。
そして、その平安そのものが、私たちに与えられている祝福であり、恵みである。
神の国に入り、自分の力が足りない部分は神さまに委ねよう。
重荷を下ろし、主が背負わせる重荷を持って運ぶことが、神さまの願いだからである。

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