マルコ5:21-34 マルコ ㉓ 『神の国つづく信仰』 2020/08/02 けんたろ牧師

マルコ 5:21-34
5:21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
5:23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

ゲラサ人の地から帰ってきたイエスさまたちは、二人の人と出会う。
二人の人とは、会堂司のヤイロと、長血を患った女である。
彼らの信仰の違いを通して、神さまが私たちに求めている信仰がどのような信仰なのかということを学ぶことができる。

① ヤイロの信仰
会堂司とは、シナゴーグというユダヤ人の会堂を管理している人のこと。
それなりに立場のある人だった。
彼は死にかけている娘を癒してもらいたいとイエスさまに懇願する。

ヤイロは、人目もはばからずイエスさまの前にひれ伏し、イエスさまに押し迫る熱心な信仰を持っていた。
しかし、彼の信仰には問題があった。

それは、イエスさまの力に勝手な条件をつけていたこと。
娘が癒されるためには、イエスさまがご自身の計画や予定を変えて、ヤイロの家に行き、娘に手を置くのでなければ癒されないと思っていたのである。

ヤイロの信仰は、自己都合的で強引な部分があり、イエスさまの力を限定されたものとして考えていた。

② 長血の女の信仰
律法にはこのような記述がある。

レビ 15:25 女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。

この女性は、12年の間出血が止まらず、汚れた状態となっていた。
汚れた状態で誰かに触れるとその人も汚れてしまうため、この女性は12年もの間、誰かに触れてしまったり、触れられることを恐れて生きてきた。

彼女の信仰の素晴らしさは、ヤイロとは違い、イエスさまの力を限定してしまわないことだった。
彼女は、イエスさまの衣に触れるだけでも癒されると信じ、その通りになった。

しかし、彼女の信仰にも問題があった。
それは、その信仰も、彼女の身に起こった癒しも、誰にも言わず黙っていようとしたことである。

イエスさまは、こっそりその場を去ろうとしていた女を留め、信仰によって癒されたことを公に話した。
彼女は望まないことだったが、必要なことだとイエスさまは思っていた。

③ 私たちの信仰は?
この二人の信仰は、それぞれに相対するものだったが、それぞれに素晴らしい部分と、問題になる部分があった。
彼らには、信仰そのものがあったので、救いを手にしている人々だったはずである。
でも、救われて終わりではなく、そこからもまだ成長することはできる。
神さまとの関係は、より素晴らしいものへと変わっていくことができる。

私たちはどうだろう?
ヤイロのように、身勝手なことを願っていないだろうか?
長血の女のように、神さまとの関係を内緒にしてしまっていることはないだろうか?
ヤイロのように信仰を明確にし、長血の女のように委ねる信仰になりたいものである。