マルコ5:35-43 ㉔『恐れないでただ信じる』 2020/08/16 けんたろ牧師

マルコ 5:35-43
5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。

イエスさまは、会堂管理人のヤイロと、長血を患った女という二人と出会った。
ヤイロの娘は病気にかかっていて、女は長い間出血が止まらず、どちらもイエスさまなら癒すことができると信じていた。
しかし、二人の信仰にはそれぞれに問題があった。
ヤイロは人前でも物おじしない熱心な信仰を持っていたが、神さまの力を軽く見積もり、イエスさまが来て手を置いてくれないと娘は癒されないと思っていた。
長血の女は、イエスさまが着ている衣に触れるだけでも自分は癒されるという強い信仰を持っていたが、人前に明らかにされることへの恐れを持っていた。

① 長血の女の癒し
ヤイロは、一刻も早くイエスさまに来てもらい、娘を癒してもらいたいと焦っていた。
しかし、イエスさまは立ち止まり、誰が自分に触ったのかを追求し始めてしまう。
こんなたくさん人がいるところで「誰が触ったかのか」と言い始めるイエスさまに、ヤイロはいらだったのではないか。

しかし、それは大切なことだった。
それは、長血の女のためだけでなく、ヤイロのためでもある。
イエスさまはこのように言っていた。

マルコ 5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

「信仰によって癒された』ということばは、ヤイロの耳にはどのように届いただろう?
来て、触れてもらわなければ癒せないと信じていたヤイロには、触れずに癒された長血の女の信仰は大きな意味を持っていた。

② 希望はまだある
しかし、その出来事が終わってようやく帰宅すると、人々は悲しみながら家から出てきた。
ヤイロの娘はもう死んでしまったという。
手遅れだったのだ。

イエスさまはどうして早く来てくれなかったのか。
どうして、あんな女に時間を費やしたのか。
ヤイロの心にはいろいろな思いが交錯したのではないだろうか。

しかし、人々のことばを聞いたイエスさまは、ヤイロにこのように告げた。

5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

家の中では、人々がヤイロの娘の死を悲しんで泣き叫んでいた。
イエスさまは、「何を騒いでいるのか? この娘はただ眠っているだけだ」と言った。
人々はイエスさまを嘲った。
しかし、イエスさまが「タリタ、クム(娘よ、起きなさい)」と言うと、娘は起き上がった。

もう手遅れだ、希望は絶ち切れた、命がない、死んでしまったと思うものがある。
しかし私たちは、希望を失ってはならない。
死んでしまったものでも、希望がないように思えるようなことの中にも、主は命を吹き込むことができる方だからである。

③ それぞれの人生
ヤイロは人望がある会堂司で、人目をはばからない大胆な信仰を持ち、しかし神さまの力を限定してしまう弱さを持っていた。
12年前、彼には娘が授かり喜びに満たされた、しかしその12年後、娘は病気で死んで絶望の淵に落とされた。

長血の女は、汚れた女として蔑まれ、信仰によって癒されたことも隠そうとしたが、イエスさまの衣に触れるだけでも癒されるという強い信仰を持っていた。
12年前、彼女は病気によって絶望の淵に立たされたが、12年後イエスさまに癒されて喜びに満たされた。

彼らは正反対の人生を送ったが、絶望の中からイエスさまに救われた。
私たちが直面する状況もいろいろで、人によって違うけれど、イエスさまによって希望は与えられる。
救いの喜びは、どんな人にも与えられる。
どんな状況でも、恐れず信じ続けよう。