マルコ6:14-29 ㉗『ヨハネの生きざまに学ぶ』 2020/09/06 けんたろ牧師

マルコ 6:14-29
6:14 さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」
6:15 ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。
6:16 しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」
6:17 実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。
6:18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。
6:19 ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。
6:20 それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。
6:23 そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。
6:24 そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」
6:25 少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」
6:26 王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。
6:29 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった。

イエスさまの活動が広がるにつれて名前が知れ渡り、ついにヘロデ王の耳にまで届くようになった。
ヘロデは、ユダヤのこの時代の王。
イエスさまが産まれたときに赤子を殺そうとしたヘロデ大王の子どもにあたる。
ヘロデがイエスさまのことを聞いたときに感じたのは、自分が殺したヨハネが蘇ったのではないかという恐れだった。

① バプテスマのヨハネとは
イエスさまのいとこであり、イザヤによって救い主が来るための備えをすると預言されていた人物。
人々の心を神に向けさせ、ヨルダン川でユダヤ人たちに洗礼を授けていた。
異邦人がユダヤ人になるためのしるしとして行われていた洗礼を、ユダヤ人たちに対してするのは異例のこと。

ヨハネは、ヘロデの結婚について糾弾したために投獄された。(マルコ1:14-15)
ヘロデが兄弟ピリポの妻であるヘロディアと結婚したから。
実はそのヘロディアは、別の兄弟アリストブロスの娘だったから、自分たちの姪と結婚していたということでもある。
この出来事は、近親相姦や不品行というだけでなく、ユダヤに数々の混乱をもたらすことにもなっていた。(これがきっかけで、ヘロデの元妻の国との間に戦争が起こったともいわれている。)

バプテスマのヨハネはまっすぐな人で、不正を許すことができなかった。
ユダヤの王として、罪を罪として認め、悔い改めることを求めた。
それによって、ヨハネは投獄されてしまったのである。

② ヘロデ・ヘロディア・サロメ
ヘロデ、ヘロディア、サロメはどのような人々だったか?
ヘロデ:ヨハネを正しい人として認めていたが、自分にとって都合の悪いことを言うので疎ましくも思っていた。
投獄して何とか黙らせておけばいいと思っていたが、ヘロディアの策略によってヨハネを殺してしまったことを後悔していたのではないかと思う。

ヘロディア:バプテスマのヨハネを目の上のたんこぶだと思い、何とか殺したいと願っていた。娘の誕生日にバプテスマのヨハネの首をねだらせるような、新約時代の悪女の代表のような人。

サロメ:母ヘロディアの言いなりになっている操り人形のような状態の少女。ヨハネを殺したい母の要望で、自分の誕生日に義父であるヘロデにヨハネの首を所望した。新しい父親として認めてもらいたいヘロデは、サロメの願いを断ることができず、ヨハネを殺すことになってしまう。

バプテスマのヨハネは処刑された。
しかし、自分の罪によって処刑されたのではなった。
悪女ヘロディアの罪、優柔不断で自分の意思を貫けなかったヘロデの罪、母親の言いなりになって自分の意思を持たなかったサロメの罪によって殺されたのである。
キリストの道の備えとして生きたヨハネは、その死にざまもイエスさまの死を暗示するものとなっていた。

③ ヨハネの生きざま
ヨハネは、素晴らしい働きをたくさんしたが、その生涯はすべて、イエスさまの働きの備えとなるものだった。
私たちの生き方も、彼に倣うことができる。

大切なのは、私たちの生きる歩みがイエスさまへと続くものになっていくこと。
そして、私たちがキリストの前に死ぬこと、死んだ者となることである。
もちろん文字通りに死ぬことではないが、自らが消えていき、キリストが明らかにされていくことが大切。

マルコ 8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

バプテスマのヨハネ自身も、このように言っていた。

ヨハネ 3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

ヨハネはイエスさまを指さし、自分の弟子たちに「あの人についていきなさい」と言った。
私たちも、自分のすばらしさを表し、自分についてこさせるのではなく、イエスさまについて行くように伝えていく必要がある。