民数記20:1-13 民数記14 『メリバの水事件』2026/04/26 けんたろ

民数記20:1-13
20:1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。
20:2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
20:4 なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
20:5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。
20:7 【主】はモーセに告げられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
20:13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが【主】と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。

今日は民数記20章に記されている「メリバの水」の出来事を取り上げたいと思います。
この箇所は、イスラエルの歴史の中でも特に重い意味を持つ場面です。
なぜなら、ここでのモーセの行動がきっかけとなり、 モーセは約束の地に入ることができなくなったからです。
「どうしてそこまで厳しいのだろう?」 「モーセはそんなに悪いことをしたのだろうか?」
そう思われるかもしれません。
しかし、この出来事を丁寧に見ていくと、 神さまの救いの計画の深さと、 私たち自身の弱さが浮き彫りになってきます。
今日は、4つのポイントを通してこのことを考えていきましょう。

① メリバで何が起こったのか(20:1〜12)

イスラエルはツィンの荒野、カデシュに到着しました。 40年の荒野の旅が終わりに近づいている場所です。
しかし、そこでまた水がなくなります。 民はモーセとアロンに不満をぶつけます。
「なぜ私たちをエジプトから連れ出したのか」 「ここで死なせるためだったのか」
これは、出エジプトの旅の中で何度も繰り返された言葉です。
人間の弱さは、状況が変わってもなかなか変わらないものですね。

モーセとアロンは神さまの前にひれ伏し、 神さまはこう命じられました。
「岩に命じなさい。そうすれば水が出る。」(20:8)
そこでモーセは、民の前に立ちました。
しかし、民の不満に心が疲れ切っていたのでしょう。 モーセは怒りの中でこう言います。
「この反逆者らよ、聞け!」(20:10)
そして、神さまが命じたように「語る」のではなく、 岩を二度打ちました。
水は出ました。 神さまは民を憐れんで水を与えられました。
しかし神さまは、モーセとアロンにこう言われます。
「あなたがたはわたしを信じず、 わたしの聖を現さなかった。」(20:12)
そして、 「あなたがたは約束の地に入ることはできない」 と告げられます。

② なぜ神さまはモーセを叱られたのか

さて、神さまはなぜモーセを叱られたのでしょう?
叱られるにしても、約束の地に入れないというほど怒ったのはなぜなのでしょう?
そもそも、神さまは以前水を出させたときには、「岩を打て」と言われていました。

出エジプト17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。

この時モーセが岩を打つことの何が問題で、約束の地に入ることができないとされたのでしょう? そこには複数の理由があります。
第一に、神の命令に従わなかったということです。
神さまは「命じろ(本来は「話せ」という言葉)」と言いましたが、モーセは「打ちました」。
モーセは、以前の成功体験に頼り、 神さまの新しい導きに従わなかったのです。

第二に、モーセは神様を下げ、自分を上げたということです。
モーセは、まるで神さまが怒っているようにふるまい、「われわれが水を出さなければならないのか?」と言いました。
水を出すのは神さまですが、この時モーセは、自分が奇跡を起こすかのようにふるまったのです。

第三に、岩はキリストの象徴だったということです。
パウロは、この岩はキリストを表すものだったと伝えています。

第一コリント 10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

出エジプト記のホレブで岩が打たれ、水を出した出来事は、救い主が私たちのために打たれ(つまり十字架につけられ)、私たちに命の水を与えることを象徴していました。
だからホレブではこの岩は打たれましたが、それ以降はただ語り掛ければ水を出すようになっていたのです。
しかしモーセは、怒りに任せてこの場でも岩を打ちました。
それも2回も。そして、それは自分の業であるかのように示したのです。
それは、 キリストの十字架は一度で十分であるという神さまの救いの型を壊す行為だったのです。

③ モーセの失敗から学ぶ

では、この出来事から、私たちは何を学ぶことできるでしょうか。
第一に、成功体験に頼らないということです。
「前はこうやってうまくいったから、今回も同じでいいだろう」と思ってしまうことがあります。
しかし神さまは、その時その時に必要な導きをくださる方です。

第二に、神の働きを自分の力のように見せてしまう
「自分が頑張ったからうまくいった」と思ってしまうことがあります。
しかし、本当は神さまの恵みです。

第三に、自分の力(律法・行い)では救いの完成に到達できないということです。
どれだけ頑張っても、 救いを完成させるのは私たちではありません。
実は、この話の中でモーセが約束の地に入れなかったことはこのことを象徴する出来事でもあります。
律法によっては、神の国に入ることができないのです。
救いはキリストによってのみ完成するということを、私たちは忘れてはなりません。

そしてもう一つ、覚えていくべきことがあります。
それは、失敗しても、神の計画は止まらないということです。
モーセは失敗しましたが、 神の約束は揺らぎませんでした。
私たちが失敗しても、 神の救いの計画は変わりません。

「モーセは約束の地に入れなかったじゃないか」と言うかもしれませんが、それは、モーセが救われなかったということを意味しているわけではありません。
福音書の中で、弟子たちはイエスさまの隣に立つモーセとエリヤを見ましたよね。
それは、モーセが救われていたことの証でもあります。
失敗することによって、神さまは私たちを叱るかもしれませんし、相応の痛みを経験することもあるでしょう。
しかし、それでも神さまは私たちを見捨てることなく、救いの道へと導いてくださるのです。

今日も、 神さまの聖さと憐れみに目を向けながら、 歩んでいきたいですね。