民数記21:1-9 民数記16『仰ぎ見れば生きる』2026/05/03 けんたろ

民数記21:1-9
21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来たと聞いた。彼はイスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえた。
21:2 そこでイスラエルは【主】に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」
21:3 【主】はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、イスラエルはカナン人とその町々を聖絶した。そしてその場所の名をホルマと呼んだ。
21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると【主】はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

今日の箇所は、民数記21章。 荒野の旅も終盤に差し掛かり、イスラエルの民が「新しい世代」へと移り変わっていく場面です。
その中で起こったのが、青銅の蛇の出来事でした。
これは旧約の中でも、イエスさまご自身が直接引用された、とても重要な出来事です。
そして、この物語は、 私たちがどのように救われるのか なぜ十字架が必要なのか を、驚くほどシンプルに、しかし深く教えてくれます。

① 神さまの助けを経験した直後のつまずき

今日の箇所の前半では、カナン人アラドとの戦いがありました。
アラドというのは当時カナンの南部にあった都市国家です。
最初の戦いで、アラドは何人かのイスラエル人を捕らえました。 しかしイスラエルは神さまに助けを求めて祈りました。
神さまはその祈りに応えてくださり、 イスラエルはアラドに勝利しました。
神さまの助けを、はっきりと経験したのです。
ところがそのすぐ後、 イスラエルはまた不平を言い始めます。
イスラエルは水がないこと、パンがないことを嘆き、神さまが与えてくださった恵みそのものであるマナを「みじめな食べ物」と呼んだのです。

② 「燃える蛇」 ― 神の守りから外れた結果としての苦しみ

その結果、イスラエルには神さまの怒りが下ります。

21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

ここで言われている「燃える蛇」とは、 蛇が燃えているのではなく、咬まれると燃えるように痛む毒蛇のことです。
聖書の記述では、 「神さまが罰として蛇を送った」と読めるのですが、 実際には、この毒蛇はもともと荒野に普通にいたものです。
むしろ、それまでは誰もその蛇にかまれることなく守られていたわけです。
しかしイスラエルは神さまに文句を言い、神さまから離れました。
だから神さまは言われるのです。
「あなたたちが私の守りを必要としないというなら、好きにしなさい。」
こうして人々は神さまの護りの傘から外れ、 そこに元からいた毒蛇に襲われることになったのです。
神さまは意地悪をしているのではありません。 神の守りから離れたとき、人は本来の“荒野の現実”にさらされる。 そのことを示しているのです。

青銅の蛇のイメージ

蛇に咬まれた人々は痛み、苦しみ、死んでいきました。
その中で、イスラエルは自分たちの罪を認め、モーセにとりなしを求めます。
そこでモーセが祈ると、神さまは救いの方法を教えてくださいました。

21:8 すると【主】はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

青銅で蛇を作り、旗竿の上に掲げること。そして、「それを仰ぎ見る者は生きる」こと。
おもしろいのは、 神さまが示されたのは、蛇を消す方法でも、蛇を撃退する方法でも、咬まれないようにする方法でもなく、咬まれても生きる方法だったということですね。

 

一方で、この青銅の蛇は後の時代(ヒゼキヤ王の時代)に人々の間で偶像とされ、破壊しなければならなくなりました。
この出来事と青銅の蛇の意味を理解せず、青銅の蛇そのものに執着したり、そこに起こる奇跡ばかりに目を奪われるなら、それは単なる偶像になってしまいます。
その背後にある意味と神さまの意図をしっかりと考えておくことが大切ですね。

③ 福音の型としての“青銅の蛇”

では、この青銅の蛇は何を意味しているのでしょうか?
神さまが命じたように、人々は旗竿を見上げます。
そこにあるのは、青銅の蛇。それは、自分たちを苦しめた恐ろしい毒蛇です。
人々がそれを見上げた時、二つのことに気づくのです。
それは、「私たちがこの蛇に悩まされるのは、私たちが神に背いた結果だ」ということ。そして、「蛇に咬まれたら、死ぬのが当然のことなのだ」という事実です。

この蛇の姿は、私たちの現実にどこか似ていませんか?
そう、「私たちが人生の中で罪の結果に悩まされるのは、私たちが神に背いた結果だ」ということ。そして「罪人となった私たちは、死ぬのが当然なのだ」という事実です。
旗竿の上に掲げられている青銅の蛇は、私たちの罪の象徴です。
そして“罪の象徴”を仰ぎ見るとき、私たちは神様の救いの方法の不思議さを思います。
「そんなの意味が分からないし従えない」と言った人は救われませんでした。
しかし、神さまの言葉に従って仰ぎ見た人は、生きたのです。
イエスさまも、ニコデモとの会話の中で引用し、これが十字架を表していることを示しました。

ヨハネ 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

私たちが十字架のイエスさまを仰ぎ見るとき、私たちも気づかされることがあります。
それは、「本来そこにいるべきなのは、イエスさまではなく自分だ」ということです。
私たちはみんな罪人であり、 十字架にかけられるのが当然なのです。
「アイツの罪の方が大きい?」 そんなことは関係ありません。
私たちの罪は、死に値するほどに重いものなのです。
しかし、 その十字架に、私たちの代わりにイエスさまがかかってくださいました。
イエスさまが、私たちの罪を背負い、私たちの代価を払い、私たちのために命を投げ出してくださった。
そのイエスさまを仰ぎ見るとき、 私たちは命を得るのです。

蛇を撃退する方法が示されたのではないように、信仰を持って新しい命に生きることは、私たちが困難に会わないことを意味していません。
私たちが生きる中には苦難があり、困難があり、さまざまな問題がある。
しかしその中で生きる道を、福音は教えてくれているのです。

私たちは、そんな神さまをいつも信頼し、十字架を偶像としたり、神さまを私たちの願いを叶えてくれる道具のように扱うことなく、困難の中で命を与えてくださる救い主を仰ぎ見て生きる者でありたいですね。