ローマ7:14-8:2 『ローマ20 誰が私を救い出してくれるのでしょう?』 2017/11/12 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙7:14~8:2
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

皆さんの中で、「自分はどうして正しい人間になる事ができないのだろう?」と思ったことがある人は、どれくらいいるでしょうか?

聖書を読むことを通して私たちは、何をすることが正しいのか、そしてどうなる事が正しいのかということを知ることができます。
神様を愛する事、隣人を愛する事、たとえ相手が私を傷つけても相手を赦す事、迫害を受けていてもいつも喜んでいる事、どんな時でも伝道する事、お金も自分の人生も全てを神様に捧げる事、盗まない事、いやらしい事を考えない事、父と母を敬う事、安息日を守って仕事を休み、神様に礼拝を捧げる事、人の物をうらやましがったりしない事、貧しい人たちに親切にしてあげる事、病人を癒す事、嘘をつかないでいつも真実を語る事、地の塩・世の光として世界の模範になっていく事…まだまだいくらでもあります。
さて、もう一度質問してみましょう。
皆さんの中で、「自分はどうして正しい人間になる事ができないのだろう?」と思ったことがある人は、どれくらいいるでしょうか?(笑)

これが、律法の世界なんです。
今、僕が挙げたことはすべて聖書の中に書かれていることであり、全て正しい事です。
ここに書かれていることがおかしい、間違っていると思う人は、少なくともクリスチャンの中にはいないのではないかと思います。
ところが、それができない。
クリスチャンじゃないからできないのではありません。
神様を信じていて、イエス様の十字架によって救われていることも信じている。
そして、神様が命じていることが正しい事を私たちは知っているのに、できないのです。

調子が良い時には、少しはできていると思える時があるかもしれません。
でも、ストレスが溜まってきたり、体力が消耗している時、私たちは「しなさい」と言われているようにすることがどれだけ難しいかという事に気が付きます。
それどころか、「してはならない」と言われていることが魅力的に感じられてきて、その誘惑がどんどん大きくなっていくのです。

それでは、私たちはどうしたらいいというのでしょう?
律法を突き付けられた私達には、いくつかの選択肢があると思います。
ある意味では、この選択に迫る事が、私たちに律法が与えられている目的なのです。
そこには、どんな選択があるのでしょうか?
第1の選択肢は、「あきらめる」という選択です。
「こんなのムリだ。やってられるか。」と言って、全てを投げ出すということですね。
しかし、この選択に至るまでには、色々な過程があるかもしれません。
まずは「ムチャなことを言いやがって」と神様に逆切れするかもしれません。
あるいは、「両親が自分をこんな風に育てたから」とか、「世の中が悪いから」などとできない理由を並べ立てて、他の人のせいにするということもできます。
また、「できないけど、他の人たちよりはましだ」と言い訳が入るかもしれません。
まぁ、どのようなプロセスをたどるとしても、最終的にはあきらめてやらないということです。

でもこれはすべて、何の解決にもならないことです。
それどころか、それは神様との関係も放棄するという事に繋がり、救いそのものを捨ててしまうという事になってしまいます。
この選択は避ける必要があります。

第2の選択肢は、「守っているふりをする」という選択です。
律法は、厳密に考えるとそのままで守る事はできなくなってしまうので、その内容を水で薄めて、表面的に守っている体裁をするということです。
これは、律法学者やパリサイ派のユダヤ教徒たちがやっていたことであり、実は多くのクリスチャンがやっていることでもありますね。

私たちは、「自分はできている」と思うとどうなるかわかりますか?
私たちは、傲慢になっていくのです。
そして自分のことは棚に上げて、自分と同じようにできない人たちを責め、裁き、見下すようになるのです。
イエス様が、パリサイ人の祈りについて話したことを思い出して下さい。
「自分は人をゆすったり、姦淫したり、ことにこの取税人の様でないことを感謝します」と祈ったパリサイ人は、義と認められなかったとイエス様は言いましたよね。

それでは、もうひとつの選択肢は何でしょう?
第3の選択肢は、「降伏する」という選択です。
最初の「あきらめる」と同じような響きですが、意味は違います。
私たちは、自分の力ではできないと認めて、神様に降伏するということです。
そして、全てを神様に委ねて、神様に助けていただくという事なのです。

この、「降伏する」という思いが、パウロのこの言葉の中に表現されています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

だれが、私を救い出してくれるのでしょうか?
それは、イエス様です。
イエス様が、私たちの代わりに十字架にかかり、命を投げ出し、罪を贖って、救い出して下さったのではありませんか。
私たちはただ、その事を信じて、イエス様にすべてを委ねれば良いのです。

自分の力に降伏して全てを委ねてしまうように、イエス様ご自身が私達を招いています。

マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

いつまでも、自分で重荷を負おうとしてしまっていませんか?
律法という重荷を下ろしましょう。
私たちは、自分の力でその重荷を背負おうとするのではなく、イエス様が背負わせて下さる重荷を、イエス様とともに負えばいいのです。

パウロは、そこにある希望をこのように表しています。

8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

私たちはもう、罪と死の原理に捕らわれている必要はありません。
私たちはイエス様の十字架によって、もう解放されています。
8章は、パウロがその恵の原理について話してくれている素晴らしい個所です。
来週からのメッセージが楽しみですね。
期待して、祈りましょう。