ローマ8:12-17 『ローマ22 神の子として生きる』 2017/11/26 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙8:12~17
8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

イエス様が私たちに与えて下さったものの中で最も大きなもののひとつは、神様の子どもになるという特権です。
神様の子どもになるというのは、どういう事を言うのでしょうか?

世の中には、「私たち人間はみんな、神の子どもだ」という考え方もありますが、それは聖書で教えていることではありません。
私たちはもともと、神様に創造されたものです。
神様を愛し、神様から愛されるものとして創造されました。
それはそれで、私たちは素晴らしい者として創造されているのですが、問題もあります。
それは、私たちが神様から離れ、背いてしまったという事です。

神様から離れてしまった私たちは、そこにあった恵や祝福からも離れてしまい、神様が創造して下さった素晴らしい状態として生きる事が出来なくなってしまいました。
この世界にたくさんの問題があり、悲劇があり、私たちが困難の中で生きていかなければならないのは、それが理由なんですね。

そんな中で、神様は私たちのために救いの方法をもたらして下さいました。
それは、三位一体の神様ご自身であり、父なる神の子でもあるイエス様が、命をかけて私たちの罪を贖って下さったという事です。
本来、神様の子どもと言えるのは、このイエス様だけです。
私たちは被造物であって、どう逆立ちしたって神様の子どもにはなりません。
でも神様は、御子イエス様のゆえに、その救いを信じて受け取った私たちを、子どもとみなして下さったのだと、聖書には記されているのです。

子どもとなった私たちにとって、神様はとても身近な存在です。
どこか遠くに行って、見守っているだけの存在ではありません。
いつもご機嫌を伺いながら、「こんなことを願っても大丈夫だろうか?」と気を使わなければならないような方ではありません。
愛してもらうために、悪い事をしないようにしたり、良い事をして気を挽こうとしなければならないような神様ではありません。
神様は、いつでも私たちのそばにいて、私たちの存在そのものを愛してくれる、私たちの優しいお父さんなのです。

パウロはこの様に書いていますね。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

『アバ』というのは、ユダヤ人の言葉で、大人が親しみを込めて『お父さん』を呼ぶときの言葉だそうです。
大人が「パパ」とか「お父ちゃん」と呼んだらちょっと違和感がありますが、日本語ではその辺りが一番近いかもしれません。
私たちがいつでもそばに行き、安心していることができるのが、私たちの父なる神様なのです。

私たちのお父ちゃんは、もちろん厳しさも持っています。
私たちが悪い方向に向かっている時には、ちゃんと叱って下さる方でもあります。

ヘブル 12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

『懲らしめ』とか、『むち』という言葉を聞くと恐い感じもしますが、神様は私たちに問題がある時には、ちゃんと叱ってより大きな問題から守って下さる方だということです。
こういうお父さんだからこそ、私たちは信頼して神様に従っていく事ができるわけですね。

では、私たちはどうすれば神の子どもになる事ができるのでしょうか?
ヨハネは福音書の中で、この様に言っていました。

ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様の名を信じた人々、つまりクリスチャンは神の子どもとされる特権が与えられているのです。
ところがパウロは、それとは少し違う事を言っています。

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

パウロは、信じているだけではなく、御霊に導かれるなら、神の子どもとなるのだと言っているようです。
神の子としての立場のことだけで言うならば、救いを受け入れたクリスチャンは誰でもだ神の子どもだという事ができるでしょう。
でも、パウロがここで話したいのは私たちの立場のことだけではありません。
神の子どもとして生きることの喜びについて話したいのです。

そして私たちが、神の子どもとして生き、神の子どもとしての祝福を受け取って、そこに喜びを体験していくためには、私たちは神の御霊に導かれる必要があるのだとパウロは言っているのです。

神の御霊に導かれるというのはどういう事でしょう?
御霊に導かれるというのは、私たちが自分の思いではなく、神様に御心に従い、自分の行いではなく、神様が主体となって働きかけて下さる力で行動するということです。

私たちは多くの場合、自分の感情や感覚に頼って生きているのではないかと思います。
神様と出会う前の私たちにとっては当たり前のことでしたし、神様と出会った今も、普通にしている自分の感情や感覚を頼りに生きている自分に気が付きます。
でも私たちは、神様から離れた状態にあったわけですから、そのままの状態では神様の祝福を味わう事なんてできません。

次にやってしまいがちなのは、律法に従う生き方です。
「〇〇すべき」、「XXしてはならない」というルールによる生きる生き方ですね。
これは一見正しい事のように思えるのですが、そこには問題があります。
それは、私たちが無理をしているということです。
私たちの心はそこになく、そのように生きる事なんてできないのに、それがルールだから仕方がなくそのように振る舞っているのです。
そんな状態ですから、私たちは表面的にしかそのルールに従いません。
イヤイヤ従っているだけですから、そこには喜びもありません。

この2つの方法は、全く違う生き方の様でいて、その根っこは同じです。
自分の感覚か、努力かという違いはあっても、それは自分から出てくるものです。
聖書では、私たちの罪の性質から出てくるもののことを肉と呼んでいます。
実はこのふたつは、肉に従っている生き方なのです。
パウロはこの様に言っています。

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

私たちは、自分の肉による行動を止めて、御霊によって生きなければなりません。
「肉に従って生きるなら死ぬ」というのは穏やかではありませんね。
でも、肉に従って生きる生き方は、魂が死んだ状態だった私たちの生き方のままです。
イエス様と出会い、イエス様を主と信じる信仰によって新しい命を得、神の子とされても、私たちが肉に従って生きようとするのでは、これまでと何も変わりません。
新しい命が与えられていても新しいのちに生きておらず、神の子どもされていても、神の子どもとして生きてはいないのです。
それではもったいないと思いませんか?

私たちには、神様の子どもとされる特権が与えられているのです。
ならば、神様の子どもとしての祝福を、余すことなく受け取ろうではありませんか。