ローマ8:17-25 『ローマ24『「万事窮す」か?「万事益となる」か? 』 2017/12/10 小西孝蔵

ローマ人への手紙第8:26-30

26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神は愛する人々,すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かされて、益としてくださることを、私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々には、さらに栄光をお与えになられました。

1.初めに

毎年年末に1回は、ヘンデルのメサイアを聞くことにしていますが、今年も、9月に引き続き、先週東京女子大の恒例のコンサートに聞きに行きました。歌のすべてが旧約聖書と新約聖書の聖句からとられて救い主を賛美しているもので、毎回感動を新たにします。第2部最最後で歌われるハレルヤコーラスでは、イギリス国王ジョージ2世が感極まって立ち上がったことに始まったといわれる慣例で、聴衆が全員立ち上がって聞くほど、歓喜に満たされます。そして、第3部のアーメンコーラスでもう一度賛美の大合唱があってフィナーレを迎えます。アーメンコーラスの直前の聖句がローマ書8章31~34節で、次回のメッセージ箇所です。ローマ書をメサイアに譬えるのがいいかどうかわかりませんが、前半1章から4章まで、罪からの贖いを取り上げていますが、その後、肉の支配と聖霊による支配の葛藤を経て、8章は、救いの完成げテーマで、ローマ書前半のハイライトともいうべき個所ではないかと思っています。本日の箇所は、メサイアのハレルヤコーラスやアーメンコーラスのように、限りない神の愛と神の栄光を歌いあげていくハイライト場面の導入部分と言っていいのではないでしょうか。

2.聖霊のうめきと執り成し

ローマ書7章からパウロが取り上げている内面の葛藤がありました。「私は、自分ではしたいと思っている善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。」(19節)、「私は,ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか。」(24節)前回、デービッドさんも言及された箇所です。パウロは、復活のイエスに出会って、律法主義者としての強い自我が砕かれ、人間の弱さをよく知っていました。8章の前半で学んだように、その弱い自分を罪の支配から救い出してくださるのは、聖霊の働きであることを深く信じていました。

ローマ書8章26節「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

先週デービッドさんが話された22節、23節では、「被造物全体のうめき」と「我々人間のうめき」を取り上げていますが、26節では、第3のうめきとして、「聖霊ご自身のうめき」を紹介しています。

イエスは、十字架に付けられる前、弟子たちが、キリストを捨てて、逃げ出してしまうという弱さをあらかじめ知っておられ、十字架の死から復活されたのち地上に遣わされる聖霊が弟子を守ることを約束されました。

ヨハネによる福音書14:16 「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。14:17 それは真理の御霊である。・・・あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」

欽定訳によると、16節の「助け主」は、ギリシャ語でパラクレートス Parakleton:)、側にあるものという意、英語では、counselor, Helper, Intercessor, Advocate, and Comforterと表現されています。

天の父なる神様は、三位一体の神様です。ローマ書8章27節の「人間の心を探り窮める方」は、神様のことですが、天の父なる神様は、御子の求めによって地上に遣わされ、神のみこころに従って、私たちのためにとりなしをしてくださる御霊の思いが何かをよく知っておられます。従って、私たちの身に起きるすべてのこと、また、私たちの心の底まで、ご存知なのです。

私たちも弱い人間です。パウロとは次元が違うかもしれませんが、仕事のプレッシャーにつぶされそうになったり、病気や体調不良に陥ったり、人間関係の悩みからどうしようもない無力感に襲われることがあります。どう祈ったらよいかわからなくこともあります。私も、そうした窮地に追い込まれた時には、家内に祈ってもらうことが良くありました。我が家から巣立っていった子供からも、時にSOSの電話がかかってくることがあります。自分の限界を超えそうになった時、祈ってくださいとの要請です。親として、直接助けられることは少ないので、祈ることしかできません。そうした時、聖霊ご自身が、「うめきをもって」私たちのためにとりなしをしてくださるのです。天のお父様は、聖霊の働きによって、私たちの弱さ、必要なものをすべてご存知なのです。何と心強いことでしょうか。

3.万事相働きて益となる

本日の聖書箇所で中心となる御言葉は、次の1節です。「28 神は愛する人々,すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かされて、益としてくださることを、私たちは知っています。」

新改訳では、意訳されていますが、原文に近いとされる英語の欽定訳では、こうなっています。「28 And we know that all things work together for good to them that love God, to them who are the called according to [his] purpose.」(神を愛する者、即ち、ご計画に従って召されたものには、すべてのこと(万事)相働いて益となることを私たちは知っています。

「神を愛するもの」とは、「神のご計画に従って召された人々」とあります。神から愛されていることを受け入れて、神を愛するようになった者のことです。神様の無条件の愛を受け入れるのでなければ真に神様を愛することはできないからです。

「万事相働きて益となる」の「万事」とは、我々の身に起こる不幸や災難も含め、すべての事象を言います。「益」とは、直接私たち自身の利益になるというのではありません。善、即ち神の善です。神様にとって最もよき結果となる、神様の栄光が表わされる結果となることです。もちろん、それは、私たちにとっても、最善の結末に至るということです。人の目から見ると、絶望と思える事態でも、神様の計画によれば、すべて善となるように導いてくださるのです。

このことは、既に、ローマ書5章でも学んだ通りです。

「5:3それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

  最近、家内から薦められて、三浦綾子の「道ありき」(青春篇)を読みました。昔読んだことがあったのですが、もう一度読んで、感動させられました。戦後学校の教師をしていた三浦さんは、敗戦による価値観の転換に悩まさられる中、結核や脊椎カリエスなど、13年間にも及ぶ闘病生活を送り、生きる希望を失って、投げやりな気持ちになっていました。

そういう時に、前川正という病身のクリスチャン男性に出会うのです。前川さんは、純粋な気持ちから献身的に彼女を励まし、6年間支え続けましたが、結核のため亡くなります。彼の影響で洗礼を受けた牧師もすぐに倒れてなくなります。そして、彼女の元に現れたのは、亡くなった前川正と生き写しのようなクリスチャン青年でした。彼は、旭川営林署に勤めていましたが、彼女と結婚して、その後、代表作となった「氷点」をはじめ、80数冊にも及ぶ小説や随筆の口述筆記を行って、彼女の文筆活動を支え続けました。

絶望の病床にあった彼女にとって、「万事窮す」としか言いようがありませんでした。しかし、神様は、その試練を通し、また、助けとなる人々を遣わし、「万事相働きて益となる」ようにして下さったのです。何と素晴らしい神様の御業でしょうか。それは、私たち一人一人にとっても、同じことです。

(私の父も10数年間の闘病生活を通じて、信仰に導かれました。私は、大きな病気は経験しなかったけれども、人生の悩みや仕事の重圧で万事窮すかと思ったことがありました。そうした時、この8章28節の「万事相働きて益となる」という御言葉が救いとなりました。)

4.神の選びと救い

次の2節は、28節の理由を解き明かしている箇所です。

29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々には、さらに栄光をお与えになられました。」

 

 神様は、私たちの意思で神様を選んだのではなく、私たちの生まれる前から、私たちを選んでくださったのです。神の意志と人間の自由意志との関係いう予定説の問題は、ここでは、深入りしませんが、結論としては、私たちが神様によって選ばれたのは、あくまで私たちへの一方的な無条件の深い愛とそれを通じて神様の栄光が現わされるためということです。

 

詩篇139篇では、産まれる前から私たちをデザインされたとあります。

「139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。  ・・・139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。 139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の/まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。」 

エペソ11章では、天地の創られる間からわたしたちを選ばれたとあります

「1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。

 

ローマ書8章29節に戻りますが、私たちは、キリストが長子で、その共同相続人として御国を継ぐ特権を与えられているのです(17節参照)。また、8章30節には、神様は、「あらかじめ定められた(選ばれた)人々を召し、召した人々を義とし(贖い)、義と認めた人々には、栄光を与えられた」とあります(30節)。栄光とは、言い換えれば、キリスト共に復活する、永遠のいのちを与えられることでもあります。このことは、何があっても動かない事実です。私たちの信仰がぐらぐらしている時でも、「万事窮す」という事態になっても、神様が、私たちを選び、愛のうちにあらかじめ定めてくださったので、確かなことなのです。神様の限りない愛によって選ばれた私たちは、罪の奴隷状態から、キリストの十字架の贖いによって義とされ、聖霊の働きによって清められ、永遠のいのちを約束して頂いている、私たちは、大船に乗ったつもりでいいのです。

私たちは、のど元過ぎれば熱さ忘れるといいますが、ともすればその恵みを忘れがちです。私たちは、常にその恵みを感謝し、主をほめたたえると同時に、自分のすべてを捧げて、神の栄光を現すことが求められています。私たちは、神様があらかじめ敷いて下さったレールに乗って、何もしないでいいわけではありません。本日の主題ではありませんので、別の機会に譲りたいと思いますが、「天命に委ねて(従って)人事を尽くす」、自らの十字架を負ってキリストに従っていくことが大事なのです。

5.最後に

本日のタイトルは、「万事窮す」か?「万事益となる」か?とつけました。 私たちは、神様に愛され、既に選ばれている、そして、聖霊が常に寄り添って導いて下さるから、「万事益となる」、何の思い煩いも要らない、「心配ご無用」なのです。

私は、前にもご紹介しましたが、家内と違って、心配症です。石橋をたたいて渡らないタイプの人間です。そうした自分には、今日のメッセージ箇所「万事相働きて益となる」は、繰り返し、立ち返る聖句でもあります。最後に、こうしたパウロの信仰の実践について的確に表している聖句をもう一か所、紹介して終わります。

ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。

4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 

(お祈り)