ローマ13:1-7 『ローマ36 社会に生きるクリスチャン』 2018/03/25 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙13:1~7
13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。
13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。
13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。
13:4 彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。
13:5 ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。
13:6 同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。
13:7 すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

さて、ローマ人への手紙ですが、ここしばらくは「自分自身を神様に捧げる」ということをテーマに話してきています。
自分自身を神様に捧げて礼拝する生き方とは、どのようなものなのか。
いわば、クリスチャンの実践です。
先々週はそれぞれに違う賜物を与えられて生きていくということについて。
先週はDavidさんが、愛する事をテーマに話して下さいましたね。

さて、神様に全てを捧げて生きるということは、実際にはどのような生き方なのでしょう?
神様に仕える仕事だけをやって、世捨て人になるということでしょうか?
あるいはこの世の方法に反旗を翻して、社会に反発して生きていくという事でしょうか?
当時そのように考える人たちがいて、「どうせこの世界は終わってしまうのだから」と言って仕事を辞めてしまう人たちもたくさんいました。
実際には、世界の終わりは彼らが生きている間には起こらず、2000年後の今もまだ続いていますね。
でも、このような事を考える人たちは、現代にもいます。

仕事を辞めて、教会の奉仕だけをやっていればいいのだという教会があります。
また、牧師が率先して政治運動に参加し、最近でも逮捕された人がいたとニュースになっていました。
神様が私たちに求めているのは、どのような生き方なのでしょうか?
パウロはこの様に書いています。

13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

私たちは神様の赦しと恵みの中にあります。
しかしそれは、私たちが好き勝手に生きていいという事と同じではありません。
私たちは、権威や権力に従う事が求められています。
法律や常識、会社での規則など、様々なルールが世の中にあり、私たちはそれに従う必要があるのです。

13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。

法律を破ったり、職場に問題を起こすことをすれば、権威によって罰が与えられるのは当然のことです。
権力者は秩序をもたらすためにコントロールするのですから、私たちが善い事を行っているなら、権力者を恐れる必要がありません。
でも、ただ罰を避けるためだけに悪を行わず、褒められるために善い行いをすればいいということではありませんね。

13:5 ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。

大切なのは、それが規則だからとか、権力者が言うから従うということなのではなく、私たち自身が持っている良心に従って、また神様の導きに従って善い行いをするという事が大切なのです。

さて、このような話をしていると、「そうは言っても今の政権に従いたくない」とか、「権威に従えなどということは、うちの上司を知らないから言えることだ」という方もいるかもしれません。(笑)
しかし、パウロは政治的に安定した時にこの手紙を書いていたわけではありませんでした。
この手紙が書かれた時のローマ皇帝は、歴代ローマ帝国の皇帝の中でも酷く残虐で、クリスチャンを酷く迫害した人物として知られるネロだったのです。

そのようにして考えてみると、パウロが中途半端な気持ちでこの事を書いていたわけではないことがわかるのではないでしょうか?
例えネロのような皇帝であっても、全ての権威は神様が与えたものであり、その権威に従い、義務を果たす必要があるとパウロは言っているのです。
そしてそこには、様々な義務も伴います。

13:7 すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

私たちはクリスチャンとして、社会的な義務を果たす必要があります。
国の法律を守り、税金を払い、政府や会社のいう事には従わなければなりません。
場合によっては簡単なことでないのは確かです。
だからパウロは、テモテに宛てた手紙の中ではこのようにも言っています。

Ⅰテモテ 2:1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

私たちは、彼らが間違った道を進まないように、そして間違ったことをしてしまったなら、ちゃんと悔い改める事ができるように祈りましょう。
彼らが正しい道を歩めることが、私たちの人生にも大きな影響を与えるのですから。

さて、この事に関してもうひとつのことを考えてみましょう。
それは、私たちはそれがどんなに酷い権力者であっても彼に従い、ただ言いなりになっていなければならないのか、ということです。
彼らが明らかに間違えてしまっても、それでも私たちは従う必要があるのでしょうか?

これはとても大切なことであり、私たちは気を付ける必要があることです。
カルト化した教会でこのように教えられ、明らかに間違っている牧師や教職者を正すことができないという状況がたくさん起こっているのを見るからです。
ブラック企業もおなじかもしれませんね。

この事に関してひとつ言えることは、私たちの生きているこの時代は、聖書が書かれた時代とは全然違うということです。
総理大臣や大統領、会社の社長や上司は、王様や皇帝ではありません。
現代の社会ならば、人権を主張して戦う事もできるでしょう。
私たちは民主主義の社会の中で生きていますから、国のリーダーに対してさえも物申す権利が与えられています。

ましてや、牧師をここで言われている支配者や権力者と一緒にしてはいけません!
教会がそうなってしまったら完全にカルトです。
牧師がそのように主張するなんてとんでもないことですし、信徒も牧師をそのように扱ってはいけません。
私たちにとっての唯一の王は、神様なのですから。

そして、もうひとつこの事に関して言えることがあります。
それは、この時代であっても、クリスチャンは全てにおいて支配者や権力者に従ったのではなかったという事です。
大祭司たちに捕らえられ、イエスのことを人々に伝えてはならないと命じられた時、ペテロとヨハネはこの様に答えました。

使徒 4:19 しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」

ローマ皇帝が自分を神として崇めるようにと命じた時、多くのクリスチャンはそれに従いませんでした。
その結果、迫害が悪化し、多くのクリスチャンが拷問され、殺されることになっても、彼らはイエス様だけを彼らの王として信じ続けたのです。

命をかけても、私たちが信仰を貫き、護らなければならない時があります。
それは、権力が私たちと神様の関係を壊そうとする時、神様に命じられていることに背かせようとする時、そして福音を宣べ伝える事を止めようとする時です。
なぜなら、私たちにとっての本当の王は、神様ただひとりだからです。

皆さんを取り巻く環境は、権威に対しても仕えやすい環境でしょうか?
敬い、従う事が難しい相手ではないといいですね。
しかし、もしそのような難しい上司だったとしても、心から善意をもって、会社に仕え、国に仕えることができますように。
そのためにも、すべてを神様に捧げることができますように、心からお祈りいたします。