ヘブル12:1-14 『苦しみというプレゼント』2018/08/12 小林拓馬

【メッセージ】「苦しみというプレゼント」ヘブル12章1~14節

▼FOOK・INTRO

みなさんに考えてほしいことがあります。

「最近、嫌なこと、辛いこと、苦しいことはありましたか?」

いろいろあると思います。私は、最近、おなかまわりがぶくぶく太ってきて、スーツがきつくなっちゃって座るのが辛いです。

さて、どうしてこういうことが起きるのでしょうか。

イエスを信じて、クリスチャンになったら、人生全てうまくいくのでしょうか?

神様に信頼したら、人生で辛いことは起きないのでしょうか。

・・・そうですね。残念ながら、人生そう、うまくはいかないんです。

聖書には、神様に信頼したのにもかかわらず、辛く、苦しい思いをした人が大勢出てきます。イエスさまの弟子たちは、ヨハネ以外処刑になりました。パウロは何度もむち打ちの刑になり、一生のあいだ命を狙われていました。ダビデも仕えたサウルに命を狙われ、自分の子ども同士で殺し合い、さらには息子にも命を狙われました。ヨブが全財産も子どもも失い、病気になったことは、もうみなさんご存知の通りです。

考えてみてください。

イエスさまはこう言っています。

「貧しい人は幸いだ」「今飢えている人は幸いだ」「今泣いている人は幸いだ」

「人々があなたを憎み、ののしり、けなすときあなたがたは幸いだ」

「その日には躍り上がって喜びなさい」(ルカ6:20~23)

結構、辛辣なことを言っていると思いませんか?

さらに、聖書にはこんなことも書いてあります。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

新改訳聖書3版には、「信仰だけでなく、苦しみをも賜った」と書いてあります。

つまり、「苦しみさえも神様からのプレゼントだ」というわけです。

みなさんに、残念なお知らせです。

★クリスチャンは苦しみます。残念!

考えてみてください。

苦しむのであれば、その対処法を考えなければなりません。「ストレスを抱えるのはしょうがない。じゃあその対処法を考えよう」というわけです。一般社会では、これを、「ストレス・コーピング」と言ったりもします。

考えてみてください。

「あなたのストレス対処法は何ですか?」

私が会社の「ストレス・コーピング」研修で学んだ中には、「自分がストレス抱えている」と声に発するだけで、楽になるという対処法がありました。あとは、「自分はできない」と認めるというものもあります。それらは、一定程度有効です。

では、聖書には、この苦しみというプレゼントに、どう対処すればいいと書いてあるのでしょうか。

先程読んだヘブル12章の箇所から、3つのポイントを学べます。見ていきましょう。

▼1:苦しみを乗り越えるためには?

苦しみは必ず経験します。では、その苦しみをどう乗り越えればいいのでしょうか。

1節から3節をもう一度読みましょう。

1:こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2:信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を話さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

3:あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

めちゃくちゃハッキリ書いていますね。

★「イエスから目を離さないでいなさい」

これこそが、苦しみ、試練を乗り越える秘訣なのです。

考えてみてください。

イエスさまは、神の子です。神様ご自身が、人の姿となってこの世に来られた方です。何の罪もない方です。何の落ち度もない方です。

しかし、そんなイエスさまは、ただ恵みによって、私たちの落ち度によって「身代わり」となって死んでくださったのです。イエスさまは、ただ偶然死んじゃったのではありません。道半ばで処刑されてしまったのでもありません。ただ、自発的に、自らの選択によって、十字架で死ぬことを選んだのです。

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。(ヨハネの福音書 10:17~18)

イエスさまは、ご自分の選択で、苦しみ、むち打ちを受け、傷だらけになって、血だらけになって、十字架で死にました。

このイエスさまの姿、イエスさまの苦しみを考えてみましょう。

実に、私たちが経験してる苦しみの小さいことか! もともと、私たちは、その苦しみに値するようなことをしているのです!

そのイエスさまの姿を考えるだけで、不思議と力が湧いてきます。試練がなくなるわけではありません。けれども、なぜだかそれを乗り越える力が湧いてきます。元気が出ます。疲れません。不思議と、そうなんです。

では、なぜイエスさまのことを考えると、疲れ果ててしまわないのでしょうか。

この本を知っていますか? 「夜と霧」です。読んだことのある方はどのくらいいらっしゃいますか? 大学生のバイブル。有名な本ですよね。私も例にもれず、大学のときに読みました。

この本は、フランクルというユダヤ人の精神科医が書いた、ホロコースト、ナチスの強制収容所での体験をもとに書かれた作品です。この本の中で、僕が一番印象に残っているエピソードがあります。それは、ある日を境に、大勢の人が亡くなったというエピソードです。

ある日というのはクリスマスでした。大勢の人は、死ぬほどの苦しみをなんとか耐えて、生き残っていました。しかし、ある年のクリスマスを境に、大勢の人がバタバタと倒れていったのです。驚くことに、大半の人が年が明けるのを待たずに亡くなったといいます。

なぜでしょう。病気が流行したわけでも、処刑が始まったからでもありません。

考えてみてください。

なぜ多くの人がクリスマスを境に死んでいったのか。それは、「クリスマスまでには、きっと解放される」という「希望」を抱いていたからです。クリスマスが来た。クリスマスまでに戦争は終わらなかった。解放されなかった。彼らは、希望を失ってしまったのです。希望を失った人は、どうなるか。生きる気力をなくして、死んでしまったのです。

フランクルは、こう結論づけました。

「人は希望がなければ生きられない」

逆に言えば、「人は希望がある限り生きられる」のです。

みなさんも覚えがありませんか? このテストが終わったら遊べる! あと3時間で今日の仕事が終わって飲みに行ける! あと2日頑張れば、仕事が休みだ! このダイエットが終わったらケーキが食べられる。子どもが社会人になったら、あとはゆっくり過ごせる。そう思ったことはないでしょうか。

そのような小さな希望を抱くことは、非常に有効です。

しかし、私たちの一番の希望は何でしょうか。それはイエスさまです。神様ご自身です。

十字架だけではありません。イエスさまは十字架で死に、3日後に死を打ち破ってよみがえりました。そして、天にのぼり、そして、やがてこの地に帰ってくるのです。

1節に戻りましょう。1節には、「こういうわけで」と書いてあります。どういうわけで? 聖書には、このように、よくわからない接続詞がたくさんあります。ここに注目することが重要です。

こういうわけでというのだから、その前の11章を見なければいけません。11章のテーマは、「信仰」です。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュアなどの信仰について書いてあります。彼らは神様の「約束」という希望を持っていました。11章16節には、「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした」とあります。

そうです。イエスさまはいつか帰ってきます。私たちは、このイエスさまが、やがてこの地上に帰ってくるときに、イエスさまとお会いする。新しい天と地がイエスさまによってつくられる。そのときの喜びを、楽しみを、言いようもない満たしを期待するのです。この胸の中に、その希望を握りしめるのです。

そうすれば、どんな試練も、試練と思わなくなります。乗り越える力が、不思議と湧いてくるのです。

▼2:苦しみは何のためにあるのか?

では、2つ目のポイントに参りましょう。そもそも、私たちはなぜ苦しまなければならないのでしょうか。

神様を信じた瞬間から、何も苦しまなくて、人生すべてハッピーだったら楽じゃないですか? 全ての能力が与えられて、身体も疲れなくて、問題が全て解決して、若々しくなって、会社で昇進して、給料が増えて、いい家に住めて、いいクルマに乗れたら、人生イージーモードですよね?

でも、神様はそうされなかった。むしろ、クリスチャンが苦しむようにされた。

なぜでしょう。

考えてみてください。