エレミヤ20:9 『魅力的な人は情熱を燃やす』 2018/10/21 松田健太郎牧師

エレミヤ 20:9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。

ビジネスの本などを読んでいると、「リーダーには情熱が必要」とか、「営業は情熱を持って行わなければならない」というようなことが書かれてあるのをよく見かけます。
これは確かによくわかる話で、やる気がなさそうな感じで何かを売られたら、皆さんはどう感じますか?
「あの~、これどうですか? 2000円なんですけど、買いませんか? あ、そうですよね、高いですよね~。僕もそう思うんです。こんなの、この値段で誰が買うんだって思いますよね。あ~、大丈夫大丈夫。どうせ、あんまり売れていないんで…」
これじゃあ、買おうと思ってお店に行ったとしても、買うのを止めようかと思ってしまいますよね。

情熱を持って話す人には、人を引き付ける魅力があります。
そして、情熱を持って伝えることによって、その思いは相手に伝わるのです。

僕は以前、こども英会話の教室で働いていたという話しを先週しましたね。
僕が働いていたのは、教室運営のための部署でしたが、同じ会社内には営業のチームもありました。
営業部の人たちは、子どもがいる家に行っては、直接お母さんたちに営業するという方法を取っていました。
普通営業さんと言うと、スーツにネクタイのイメージがありますが、その会社は営業の対象がお母さんやこどもなので、雰囲気が全然違います。
こども番組のお兄さんやお姉さんのような雰囲気な人たちが、ゆるいというか、少しかわいらしいファッションの私服で営業に回るんです。
彼らが事務所に来ると、その一日はまず営業の練習から始まります。
二人一組になって、ロールプレイをしながら、互いに営業トークの練習をするわけです。

その時よく耳にしたのが「もっと情熱を込めてやろう」ということばでした。
彼らはとても熱心に、情熱を込めて、教室や教材の紹介を練習していたんですね。
練習を積み、経験が増えれば増えるほど、営業トークには熱が入っていくようでした。
そして、それを見ている運営部の方にもその情熱が伝染していきます。
彼らの営業トークを聞きながら、我々の会社はこんなに素晴らしいんだと再確認していくわけです。

私たちはどうでしょう?
情熱を持って生きていますか?
情熱を込めて、福音を宣べ伝えているでしょうか?
周りにいる、神さまを知らない人たちの興味をひき、クリスチャンを励まし、力づけるような情熱は私たちの中にあるでしょうか?
そもそもこの情熱は、どこから来るものなのでしょう?
どうすれば、もっと情熱を持つことができるのでしょうね?

さて、ある時営業部に、新卒か、大学を中退して入社してきたんじゃないかという若者が入ってきました。
営業部の人たちは、最初の研修期間に営業トークを叩き込まれます。
ところがその若者は、研修期間が終わる前から営業に連れていかれるようになりました。
その時は、「ずいぶんスパルタだなぁ」と思っていたのですが、そういうことではありませんでした。
彼は先輩の助けがあったとは言え、なんと初日から契約を取ってきたのです。
普通は見込み客を取って来るだけでも何週間もかかったりしますから、それは会社全体で話題になるほど、すごいことでした。

ところが、どんなにすごい営業スキルなんだろうと期待して次の日のトーク練習を見てみると、彼は大して営業トークも覚えていないし、練習しているときの様子はつっかえつっかえで、ひどいあり様です。
それを見て僕たちはがっかりし、「なんだ、たんなるまぐれか」と思いました。
ところが彼は、それからもたくさんのアポを取り、新入社員とは思えないほど契約を取ってきました。
そして彼は、先輩と一緒に回ったとは言え、入社一か月目にしてベテランと張り合うほどの営業成績を収めるようになったのです。

入社したばかりの彼が、どうしてこんな風に営業成績を上げることができたのでしょう?
もともと話すことがうまかったということも、まぁ多少あるかもしれません。
でも、彼にはほかの秘密がありました。
それは、彼が子どものころ、この会社の英会話教室に通っていて、教室が大好きだったということです。

彼は営業トークをあまり覚えていなかったし、ノウハウもあまり知らなかった。
でも彼は、少なくとも情熱を込める必要なんて少しもありませんでした。
彼は売るべき商品のことが大好きだったし、情熱はすでにそこにあったからです。

それを見たときにわかったのは、「情熱は込めるものではない」ということでした。
情熱は外から頑張って入れるものなのではなくて、内側から湧き出してくるものです。
後から一生懸命、情熱を込めようとしたところで、それは演技でしかありません。
本当の情熱には足元にも及ばないということになるのです。

エレミヤが預言者として活動を始めたとき、彼は多くの人たちから迫害を受けることになりました。
それは、バビロン帝国からの迫害ではありません。
自分と同じ、ユダや人たちからの迫害です。
多くの人々は、「ユダ王国は神に守られているから滅ぼされることはない」と思っている中で、エレミヤは「これからバビロンによる支配が始める」と預言していたからです。
ユダヤ人たちは、エレミヤを笑いものにし、石を投げて追い回しました。
そこで彼は落ち込み、「もう神さまのことばを伝えたくない」と神さまに祈ったのです。
しかし、彼はやめることができませんでした。

エレミヤ 20:9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。

情熱とはこういうものです。
やめたくても、やめられない。
辛くても、苦しくても、それ以上に伝えたいという思いが勝ってしまう。
骨の中から燃え盛る火のように溢れ出て、閉じ込めておくことができない思い。
それが、私たちに与えられているはずの、福音に対する情熱なのです。

さて、先ほどお話しした優秀な営業の青年は、それからどうなったと思いますか?
その後、会社の伝説的な営業社員となっていった…と話を終わることができたらよかったのですが、残念ながらそうはなりませんでした。
最初は驚くほどの営業成績を見せていた彼でしたが、3か月くらいしたころから、変化が見えてきました。
だんだん、契約の数が減ってきたんですね。なぜでしょう?
傲慢になってさぼったというわけでもありません。
見ていると、熱心さは変わらないし、営業のノウハウも覚え、おぼつかなかったトークも上達していました。
にもかかわらず、彼の営業成績はどんどん下がっていき、1年経つ頃にはほとんど客が取れなくなって、彼は会社を辞めてしまったんです。

このことにはみんな驚きました。
当時は、なぜそんなことになったのか、僕には全く意味がわかりませんでした。
でも、今は何となくその理由がわかるような気がします。
それは、情熱の対処が変わってきてしまったためではないかと思うのです。

最初は、純粋にその英会話教室が好きで、子どもたちが自分と同じように楽しんでほしいという思いでいっぱいだったのだと思います。
彼の情熱は、ただただ「自分の楽しかった思い出を共有」して、「子どもたちを幸せにしたい」という思いの中にあったのです。
ところが、営業として一人前になり、営業としての自覚ができるに従って、彼の情熱は「契約を取ること」に向かうようになったのだと思います。
人は、物を売り込まれたらいやな気持がするものですから、みんなどんどん離れていくようになります。
そうして彼の話を聞く人はいなくなり、彼は自信を失って会社を辞めてしまったのではないかと思うのです。

熱心さは、相手に自分の思いを伝達する力を持っています。
だからこそ、熱心である部分の対象を間違えてしまうと、相手を嫌な思いにさせたり、引かせてしまうことになるのです。

皆さんも、お店のセールストークで嫌な思いをしたことはありませんか?
宗教の伝道をされて、気持ち悪い思いをした人もいるのではないでしょうか?
そういう人たちは、熱心であればあるほど始末が悪い。
「できれば、あの人とは顔を合わせたくない」とまで思うようになってしまいます。
それは、自分本位の情熱がそこにあるからなのです。

信徒を増やしたいという情熱。同じ価値観を持っている人を増やして、自分たちの立場をよくしたいという情熱。伝道して、自分が神さまの役になっていることを証明したいという情熱。これらはすべて、自分本位の情熱です。
「神さまに従って、福音を延べ伝える」という名目のもとにやっていますから、情熱の対象がいつの間にか変わってしまっていることには、なかなか気づけないものです。
しかし、その動機が変われば、自己中心的な情熱だけが相手に伝わり、相手に嫌な思いをさせることになってしまうのです。

大切なのは、私たちの情熱がぶれないということです。
中心がどこにあるべきか、それは聖書の中でちゃんと繰り返し教えられています。

ルカ 10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

私たちは、本当に神さまを愛し、隣人を愛しているのか?
それが大切なことです。
私たちが本当に大好きなのは、誰ですか?
イエスさまですか?
それとも、一生懸命に伝道をしている自分でしょうか?

私たちが本当に幸せになって欲しいのは誰ですか?
福音を伝えようとしている相手ですか、それとも自分でしょうか?

自分では気づかなくても、相手はそれを敏感に感じ取ります。
そして私たちの情熱は、それが良いものであっても、間違ったものであっても、相手に届いてしまうものなのです。

いつも、イエスさまを大好きでいて下さい。
そして、そのイエスさまとの出会いによって、すべての人が幸せになることだけを願ってください。
教会の人数とか、神学とか、教理とか、運営とか、私たちが世の中で認められたり、発言権を持てるかどうかなんて、その人たちの幸せに比べたらどうでもいいことです。
神さまと人を愛する情熱だけを燃やして、生きていこうではありませんか。