出エジプト20:1-20 『モーセの律法に顕わされた神の義と愛』 2018/11/11 小西孝蔵

出エジプト20章1~18節
20:1神はこのすべての言葉を語って言われた。
20:2「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導
き出した者である。
20:3あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下
は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならな
い。 20:5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主で
あるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三
四代に及ぼし、 20:6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千
代に至るであろう。
20:7あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名を
みだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。 20:9六日のあいだ働いてあなたのすべての
わざをせよ。 20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもして
はならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの
門のうちにいる他国の人もそうである。 20:11主は六日のうちに、天と地と海と、そ
の中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝
福して聖とされた。
20:12あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く
生きるためである。
20:13あなたは殺してはならない。
20:14あなたは姦淫してはならない。
20:15あなたは盗んではならない。
20:16あなたは隣人について、偽証してはならない。
20:17あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛
、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
20:18民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た
。民は恐れおののき、遠く離れて立った。 20:19彼らはモーセに言った、「あなたが
わたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られ
ぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。 20:20モー
セは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れ
をあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれ
たのである」。
(祈り)
1. 初めに
今日は何の日? 「いい夫婦の日」。-夫婦仲良くね。
それ以外に何の日? 「介護の日」(いい日、いい日)-お互いに労わりましょう

ちなみに、中国では、「独身の日」、自分で自分にご褒美を買う日とされているそ
うだ。
先月小学校の同窓会。60年ぶりに1年生担任の先生をご招待(90歳)。小学校

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の1年以来、60年間毎年年賀状を交換。石井先生は、正義感が強く、子供への愛情
が深い先生。男性の先生ながら志願して1年生を担当。先生は、学校に期待と不安
をもって始めて通い始める新入生が全員学校生活を楽しく過ごせるように教育した
いという情熱に燃えておられた。当時ヤンチャで上級生とよく喧嘩していた私が不
良にならずに済んだのは、先生のおかげによるところが大きい。
また、小学校のころ、父親にも反抗して時々ひどく叱られ体罰をあたえられたが
、中学になって一切叱られなくなり、小学生の頃の罰が、愛の鞭であったことが後
でわかって、今はとても感謝している。こうした学校の先生や父との関係は、今日
のお話とも関係している。
2. シナイ山における主の顕現
1) これまで3回の学びを振り返ると、第1回、シナイ山におけるモーセの召命
、第2回、出エジプトの奇蹟を通じた主の戦い、第3回は、荒野で主はマナを降ら
せ民を養われたこと。そののち、いよいよ、モーセとイスラエルの民は、シナイ山
にたどり着いた。
シナイ山の場所は、正確には分からない。シナイ半島の南西の端が通説。一部に
アカバ湾の対岸のアラビア半島にあるとの有力な少数説もある(ロン・ワイアット
聖書考古学者)。火山地帯で山の切り立った様相がシナイ山らしい、アカバ湾を渡
ったとされる場所らしきものも推測されている(別図参照)。遺跡らしきものも
YouTubeでも紹介されている。
それはともかくとして、出エジプトから45日(ニサンの月の15日から第3の月の
1日まで)、距離にして250~300㎞とすれば、東京から名古屋くらいまで、移
動した後、モーセは、かつて召命を受けた同じシナイ山にたどり着いた。
2) シナイ山を前にして、主は、モーセを呼ばれた。山の上には、主が天から臨
在し、聖なる場所であることから、イスラエルの民は、近寄ることが出来ず、ふ
もとにとどまって見守るよう命じられた。シナイ山の全山に煙が立ち込め、全山
が激しく震え、ラッパの音が鳴り響いたとき、主は、雷をもってモーセに語りか
けた。
このモーセが民の代表者として聖なる山で主にまみえるという光景は、のちに
、幕屋の至聖所が設けられて、大祭司だけがそこに入って神に会うことが出来ると
いう儀式につながっていくように思える。
こうして、主は、モーセに十戒と律法を授けられた。その内容が本日の聖書箇
所出エジプト20章である(パワーポイント別紙参照)。十戒の具体的な内容に入
る前に、十戒に代表される律法の目的と本質が何なのか、考えてみたい。
3. 律法の本質
1) 律法は普遍的なもの
一般に、旧約では、人間の罪への神の裁き、新約では、キリストによる罪の赦しと
いう神の恵みに変わったのだから、十戒に代表される旧約の律法は、あまり、重要
視しなくてもいい、新約聖書さえ読んでいれば十分というような誤解があるのでは

イエスは、こう言っておられる。
マタイによる福音書5章

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「5:17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するた
めではなく、成就するためにきたのである。 5:18よく言っておく。天地が滅び行くま
では、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」
パウロは、今、映画でも描かれているが、熱心なユダヤ教徒として、キリスト教
徒を迫害したが、それは、律法主義から出たもの。したがって、律法主義に対して厳
しく否定したが、律法そのものの大切な役割を認めている。
ローマ人への手紙7章
「7:7それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない
。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律
法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろ
う。」
ガラテヤ書3章
「3:24このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリスト
に連れて行く養育掛となったのである。私たちが信仰によって義と認められるためである
。」
もちろん、律法の中には、何百というユダヤ教特有の祭儀的律法があり、これらは、現
代の私たちには、無縁なものが殆どではあるが、十戒を代表とする律法の本質は、旧約の
時代から変わることなく、むしろ新約の時代になって、キリストによって完成されたもの

2)律法は、神の義を顕すもの。
神様は、私たち人間に自由意思を与えて下さり、契約を通じて、約束を守ることを
命じておられる、これは、深い愛に裏打ちされた厳しさでもある。
出エジプト20章20節(ヘブライ語に忠実に訳した岩波書店翻訳)
「モーセは民に言った、「神の畏れがあなたがた目の前にあるため、あなたがたが
罪を犯さないためである」。
ここで、神の畏れとあるのは、ヘブライ語で、日本語の「畏敬」という言葉に近い
ようだ。この畏敬と愛は、旧約では、表裏一体との言葉とされている神様と民との密
接な関係を顕している。
3)律法は、神の愛を顕すもの。
イエスは、福音書の中で律法の本質を表された有名な御言葉を述べられた。
マタイによる福音書22章
「22:35そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
22:36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 22:37イエス
は言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を
愛せよ』。 22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39第二もこれと
同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 22:40これらの二つ
のいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。」
神への愛は、申命記6章4節、隣人への愛は、レビ記19章18節の引用でもある
。モーセの十戒の第1から第4戒までが、神への愛、第5戒から第10戒までが人へ
の愛に分類される。
律法は、神の義と愛を示すもの、したがって、律法は、神様の教えで、それを守る
ことは、自分がそれによって守られることにもなる。律法は、私たちの養育係で、神
の恵みであることを忘れてはいけない。冒頭の両親や先生から受けた私の子供時代の

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体験からもわかる気がする。詩篇119篇は、神の戒め、おきて、さとしを守るものの
幸いをうたっている。

4. 十戒に示された神と民との関係性
第1戒 「何物をも神としてはならない」、第2戒 「偶像を作ってはならない
」、
第3戒 「主の名を、みだりに唱えてはならない。」
第4戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ」、第5戒「あなたの父と母を敬え
。」、第6戒 「あなたは殺してはならない。」、第7戒「あなたは姦淫してはな
らない。」、第8戒「あなたは盗んではならない。」、第9戒 「偽証してはなら
ない。]
第10戒「あなたは隣人のものをむさぼってはならない。」
十戒の一番大切な戒律は、第1戒と第2戒の神様との直接的関係性である。
偶像崇拝の禁止の戒めは、その後のイスラエルの民がカナンに入り、豊穣のシンボ
ルであるバールという異教の神に走って、何度も裁かれたことからしても、もっとも
切実なものだった。
また、イエスは、荒野の試みで、サタンから、ひれ伏して拝むなら、この世の栄華
を与えようという誘惑を受けたが、「あなたの神である主のみを拝し、主に仕えなさ
い」と反撃された。
十戒の最後の第10戒は、「むさぼるなかれ」であるが、これは、偶像崇拝と表裏の
関係にある。コロサイ書3章5節に「むさぼりは、そのまま、偶像崇拝です。」とある
通り、自分をよく見せたいという欲望は、むさぼりにほかならない。」とある。私た
ちが取りつかれる欲望の代表は,富と権力、物欲と自己顕示欲、それに情欲である。
我々、成長するにしたがって父母の元から離れ、独り立ちしていったあと、父母の
教えを忘れて、自由を謳歌し、自分の欲望のままに生きるようになってしまうように
、神様から離れ、いつの間にか、神に代わる何かを拝み、第一にして生きている。
私の拙い経験だが、クリスチャンホームに育って、神の存在は疑ったことはなか
ったし、自分には信仰があると思いこんでいた。しかし、受験戦争の中で身を置いて
いた時期、親からの期待もあって、人よりも上に立ちたい、少しでもいい大学に行き
たいという気持ちに縛られてしまった。以前にもお話ししたように、大学に入った時
に、ついに、そうした生き方が破綻して、うつに陥りました。その時、キリスト学生
寮に入って、イエス様に出会って平安を与えられ、半年から1年くらいかかったが、精
神的などん底から救い出していただいた。今から振り返ると、神様を拝んでいるよう
でいて、実は、自分が人から評価されたいという、自己顕示欲から、自分を神の座に
据えてしまっていたことに気づかされ、悔い改めた。
第4戒の安息日厳守のおきても、律法主義的に守るとすると、律法学者がイエスを攻
撃したように、人を裁く手段にもなるが、その本質は、忙しく働く中で、主を覚え、
主の臨在を実感する時を持ちなさいという趣旨。日曜日の礼拝に必ず出なさいという
律法ととらえるよりは、主を覚えて感謝し、祈る時を大切にすること、それによって
、主と共に歩む生活を送ることが出来るよという励ましの教えとしてとらえるべき。
学生時代にお世話になり、今もかかわっているキリスト教学生寮で長年守られてきて
いる寮則の趣旨でもある。子供の時から、教えておくべき戒めでもある。
5. こころに律法を書き付ける

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十戒に代表される律法は、あるべき姿としては分かるけれども、自分には守る力が
ない。
どうしたら、実行できるのだろうという疑問は、だれしも持っている。
パウロも、そうだった。神の律法を守ろうとして守れない罪、肉の欲望との葛藤に
ついて、
ローマ書7章で語っている。そこからの脱却の道として、パウロは、ローマ書8章
3,4節で「神は、御子を罪のために遣わされた。それは、御霊に従って歩む私たち
の中に、律法の要求が全うされるためです。」と記している。神の律法と罪との葛藤
は、イエスの十字架による贖いと復活、聖霊の働きによって完全に克服される。
旧約の律法から新約の律法への橋渡しをしているヘブル書の聖書箇所を最後にご紹
介しして終わりたいと思う。
へブル人への手紙10章
10:14 キリストは、聖なるものとされる人々を、一つのささげものによって
、永遠に全うされたのです。10:15聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、 10:16「
わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が
言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言
い、 10:17さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」
神の子イエス様による罪の贖いと復活後に遣わされた聖霊の働きによって、十戒に
代表される神の律法を守れるように導いてくださる。私たちは、聖なる神の律法を忘
れることなく、心に記しつつ、神の恵み、キリストの愛に日々感謝しつつ、主と共に
歩もうではないか。
(祈り)