ヨハネ15:13 『魅力的な人には愛がある』 2018/12/23 松田健太郎牧師

ヨハネ 15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

魅力的なクリスチャンのシリーズも、今日でいよいよ最後となります。
このシリーズは、私たちがクリスチャンとして成長していくほど、イエスさまに似た者となるなら、魅力的だったイエスさまのように、魅力的な人となるはずだという発想の元に始まったシリーズでした。
皆さんは、より魅力的なクリスチャンになる秘訣を見つけることができたでしょうか?

いろいろお話してきましたし、まだまだお話しできることもいっぱいあるのですが、結局のところ、すべてのことはひとつに集約していきます。
イエスさまの生涯を見てみればよくわかります。
それは、魅力的な人には「愛」があるということです。

第一に、神さまであったイエスさまは、人間として生まれて、私たちと同じ目線に立ってくれました。
もっと私たちを知り、私たちに寄り添い、私たちとともに生きてくださいました。
イエスさまは私たちの悩みや、痛みや、辛いこと、苦しいこと、そして私たちの喜びを自ら体験してくださったのです。
神の御姿であるイエスさまにとって、罪人である私たちの中で生まれ、私たちともに生きるということは、どれほど身を低くすることだっただろうかと思います。
そこに、惜しげなく捧げられるイエスさまの愛が表されています。

第二に、イエスさまは私たちに歩むべき道を教えてくださいました。
イエスさまは私たちの目線に立ち、罪人である私たちを理解したうえで、私たちがどのように生きればいいのかという目印となってくださいました。
「私たちは不完全な人間だから仕方がない」というのではなく、本来私たちがどのような者として創られたのか、そしてどんな風に生きることができるのかということを、身をもって示してくださったのです。
それは、神さまに尋ね、神さまに従う生き方でした。
それは、人に仕え、人を愛する生き方でした。
イエスさまはその生き方を通して、私たちがただ豊かな生活するために生きるのではなく、人に仕え、神さまに従って生きるときに本当の幸せがあることを教えてくださったのです。

それは弟子たちに希望を与え、現代を生きる私たちにも、希望を与える生き方です。

第三に、イエスさまは自らを犠牲にしてくださいました。
イエスさまが自らの立場を捨てて人間となってくださったことは犠牲でした。
私たちのただなかで、私たちとともに生きてくださったことも犠牲でした。
でもそれだけではなく、イエスさまは私たちのために、自らの命をも投げ捨ててくださったのです。

それは、イエスさまが命を捨てることが、私たちを救う唯一の方法だったからです。
イエスさまは、大きな犠牲を払って、私たちを愛してくださったのです。

第四に、イエスさまは私たちに命を与えてくださいました。
私たちは神さまから離れて罪びととなり、滅びることが定められていました。
神さまとの関係が壊れたために、肉体的には生きていながら死んだ状態となっていた私たちは、自分が正しいと思うことをして自分は正しいと思い込み、しかし互いを貶め合い、互いを傷つけるような生き方をしてきました。

でもイエスさまは、自らの命を犠牲にして、私たちに命を与えてくださったのです。
それは、私たちが今の状態のままで永遠に生きられるようになったとか、「天国にいけるようになりました。ハッピー!」ということではありません。

私たちは生きているように見えていても、死んだ魚のような状態だったのに、新しい命が与えられたということです。
救いを受け取るなら、私たちはもう死んだ者としてではなく、生きたものとして生きることができるようになるのです。

第五に、イエスさまは、私たちに力を与えてくださいました。
イエスさまが私たちに与えた新しい命は、生き方が変わるだけではなく、そのための力が伴います。
でもそれは、私たち自身の中にある力なのではなく、神さまが私たちを通して発揮してくださる力です。

私たちは、どうすればその力を体験することができるのでしょう?
断食して、徹夜をして祈り、修行をすることによってその力を得るのでしょうか?
いいえ、私たちが神さまに従って行動するとき、そこに力があるのです。

イエスさまは、身をもってそれを表してくださいました。
イエスさまが天に昇られた後にも、弟子たちを通してその力は発揮されました。
今を生きる私たちにも、同じことが起こります。
神さまがそれを望み、私たちが神さまの意志に従うとき、そこに御業は起こるのです。

イエスさまが地上に来られたということは、私たちの人生、生きる意味、生きる方法のすべてを変えるような大きな影響があることでした。
私たちは、そのことを覚え、祝い、喜ぶためにクリスマスの日を使っています。

もともとこの日がイエスさまの誕生日だったわけでも、聖書の中で制定されたお祭りでもありません。
それどころか、もともとは異教のお祭りだったわけですが、どうせ祝うなら、イエスさまのことを祝おうじゃないかということで始まったのが、クリスマスなのです。

皆さんの人生には、そんなイエスさまの愛がインパクトをもって訪れたでしょうか?
イエスさまの愛は、私たちの人生をすっかり変えてしまう力を持ったものです。
そして、そのイエスさまは、私たちにこのように命じています。

ヨハネ 13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

私たちは、聖書の言葉を読み、それについて学びます。
それは悪いことではありませんし、大切なことを教えてくれることも確かです。
しかし私たちは、どれくらい愛することを実践し、愛に基づいて生きることができているでしょう?
もしも私たちが、聖書の知識や神学に明け暮れて、実際に隣人や神さまを愛そうとしないなら、私たちがイエスさまを個人的に知り、ともに歩くことは恐らくないでしょう。
私たちは知ることや理解することを求められているのではなく、「愛し合うこと」が求められているのです。

「そんなことを言われても、愛するために何をしたらいいかわかりません」という方は、とにかくイエスさまに聞いてみてください。
誰を愛したらいいですか?
どのように愛したらいいですか?
常にそれを神さまに尋ねながら、愛を実践する機会を探し続けてみましょう。
神さまは必ず、導きを与えてくださいます。
そして、神さまがその機会を与えたなら、実際に愛してみることです。
その時にわかるのは、私たちにはどれだけ愛が足りないかということかもしれません。
そして、神さまが命じることを実践することに難しさを感じるでしょう。
小さなところから始めればいいと思いますが、神さまは必ず、私たちには難しい状況の中で愛しなさいと命じてきます。
その時には、とにかく従ってみることです。
私たちが従うときに、神さまの力が働くからです。

神さまの愛、家族の愛について考えさせられるこのクリスマス。
だからこそ、今年のクリスマスは、「愛すること」をチャレンジとして、改めて考えてみるときにしてみませんか。
そしてこれからの1年は、とにかく神さまと隣人愛することに全力を注ぐ1年にしてみてはどうでしょう。

愛することには、愛されること以上の喜びがあるからです。