ネヘミヤ 2:1-8『いつでも、どこでも、どんな時でも』 2019/02/24 小林拓馬

【メッセージアウトライン】
▼タイトル
いつでも、どこでも、どんな時でも
▼聖書箇所 ネヘミヤ 2:1~8
1:アルタクセルクセス王の第20年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、私は
ぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった
2:すると、王は私に行った。「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしてい
るのか。きっと心に悲しみがあるに違いない」私は非常に恐れて、
3:王に行った。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、そ
の門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか」
4:王は私に言った。「では、何を望んでいるのか」私は天の神に祈ってから、
5:王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダ
の地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください」
6:王は私に言った。王妃もそばに座っていた。「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来る
のか」王はこれを良しとして、私を遣わしてくださることになり、私は予定を伝えた。
7:また私は王にこう言った。「もしも王様がよろしければ、ユダに着くまで私が通行できるよ
うに、ユーフラテス川西方の総督たちへの手紙をいただけるでしょうか。
8:そして、宮の城門の梁を置くため、また、あの都の城壁と私が入る家のために木材をもらえ
るように、王家の園の管理人アサフへの手紙もお願いします」わが神の恵みの御手が私の上にあっ
たので、王はそれをかなえてくださった。
▼FOOK
まずこの曲を聞いてください。
「どんなときも」

いい歌ですね。サビの歌詞が特にいいですね。
<サビの歌詞>
どんなときも、どんなときも、僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と 言えるきもち抱きしめていたい
どんなときも、どんなときも、迷い探し続ける日々が
答えになること、僕はしってるから
どんなときも、「好きなものは好き!」
→私たちにはそれぞれ好きなものがあります。でも、教会のコミュニティにつながっている
私たち全員が「好き!」と言えるのは誰でしょうか。イエスさまです。
どんなときも、「イエス様が大好き!」と言える気持ちを抱きしめたいですね。
どんなときも、「迷い探し続ける日々が答えになる」
→イエスさまを信じても、答えが分からない時があります。どうしていいか分からない時がありま
す。でも、その中で、「神様は何を望んでおられますか」と探し続けながら生きる日々、それが答
えになる。
賛美の歌ではないですけれど、いいエッセンスが詰まっていると思います。
▼イントロ・導入
さて、今日は、「いつでも、どこでも、どんな時でも」というタイトルでメッセージをします。
特に、今日はネヘミヤの姿から「祈りの姿勢」について3つのポイントを学んでいけたらと思い
ます。
ちょっと、ネヘミヤさんが登場する前に、どういう状況だったか整理してみましょう。
<時代背景>
・この時代は、紀元前のお話です。だいたい紀元前444年頃の話。
・そして舞台は、アケメネス朝ペルシャ。中東全域を支配する大帝国でした。(地図出す)
・ネヘミヤがいたのは、この地図(地図を出す)のこのあたり、「スサ」(シュシャン)という
行政的な首都でした。
・この100年前に、有名なクロス王が出てきて、エルサレムへの帰還と、神殿の再建が始まっ
ていたんですね。しかし、何度も妨害され、神殿はできても城壁は壊れたままでした。
・ちなみに、この時の王様は、アルタクセルクセス王。その前の王様は、クセルクセス王、別の
名前をアハシュエロス王。ピン!ときた人もいるかもしれませんが、エステルが王妃となった時
の王様ですね。今回は、エステル記からだいたい20年ぐらい後のお話。
<ネヘミヤの役割と使命>
・ネヘミヤは、アルタクセルクセス王の献酌官でした。献酌官というのは、王様に飲み物を献上
するわけですから、絶大な信頼がないとできない役割です。王様に毒を盛れちゃいますからね。
そんな大切な役割を担っていました。
・今日は読んでいませんが、1章でネヘミヤは、兄弟のハナニという人から、エルサレムの状況
を聞きました。
・エルサレムの城壁は崩され、門は火で焼かれたままだ。と。
・ネヘミヤは、この話を聞いて、嘆き悲しみ、神様の前に断食して祈りました。そして、この城壁
を再建しに行こうと決意するのです。ネヘミヤは、その使命を祈りの中で受け取ったのでした。
さて、整理できたでしょうか。
このネヘミヤさんの行動から、「祈りの姿勢」について3つのポイントを見ていきましょう。
▼ポイント1:神様に「集中的」に祈る。
・最初のポイントは、「集中的」に祈るということです。
・ネヘミヤは、「エルサレムがやばい状況だ」というのを、キスレウの月、だいたい11月~1
2月頃に聞きました。そして、行動を起こしたのはニサンの月、だいたい3月~4月頃でした。
★つまり、ネヘミヤは4ヶ月ほど、集中的に祈っていたのです。しかも、断食して、全ての集中力
を神様に向かうことに注ぎました。
・私たちも、人生において、様々な選択をしなければいけません。その中でも特に、「自分の召
し」については、神に祈り、選択をしていかなければなりません。
・よく、「牧師や宣教師になる人」は、「その召し」があるといいます。でも、そういう人たち
だけに「召し」があるのではありません。あなたにも、神様からの「召し」があるのです。
・もし今、心の中に「これをやってみたい」「神様のために、こんなチャレンジをしてみたい」
でも、答えが分からなくて、迷っているということはありませんか?
・もしあるのであれば、それはもしかすると神様からの志かもしれません。だけど、かなりの確
率で、自分がやりたいだけかもしれません。
・だから、それを判別するために、もし何か志が神様から与えられたと思ったならば、または「召
し」が何か分からないならば、まずは神様に「集中的に」祈ってみたらどうでしょうか。
・ネヘミヤは4ヶ月間祈りました。この「4」という数字は、ヘブライ語においては「完全さ」
を表します。聖書の中では、多くの場合、4とか40とかいう数字で、神様の「テスト期間」が示
されます。例えば、モーセはエジプトから逃げて、召しを受け取るまで40年間荒野で生活しま
した。イスラエルの民は40年間荒野をさまよいました。その間で練られ、神様にテストされた
のです。
・ネヘミヤは集中的に祈りました。その中で、ネヘミヤは、「神に呼び求め」「罪を告白して悔
い改め」「神様の約束を宣言し」「神様に助けを願いました」。
・今、「神様の声を聞くため」に、教会みんなで取り組んでいることは何ですか?
1:悔い改めることはあるか。2:誰を愛すればいいですか。3:どうやって愛を示せばいいで
すか。4:誰に福音を伝えればいいですか。5:どうやって福音を伝えればいいですか。
・まず、このポイントを神様に聞いてみましょう。そして、もし何か神様に求める答えがあるなら
ば、ネヘミヤのように「集中的に」、一定の期間、祈ってみるのも、ひとつのポイントかもしれ
ません。
▼ポイント2:神様に「瞬間的に」祈る
・さて、もう一度聖書の言葉を読んでみましょう。1節~5節
1:アルタクセルクセス王の第20年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、私は
ぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった
2:すると、王は私に行った。「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしてい
るのか。きっと心に悲しみがあるに違いない」私は非常に恐れて、
3:王に言った。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、そ
の門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか」
4:王は私に行った。「では、何を望んでいるのか」私は天の神に祈ってから、
5:王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダ
の地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください」
・4節をもう一度見てください。「私は天の神に祈ってから・・・」と書いてあります。
・ネヘミヤは、王様にワインを提供していました。王様の前で、落ち込んだ姿を見せるのは、当
時は良くないことでした。
・ダニエルでも、ダニエルたちが野菜ばかり食べて、痩せてしまったら王の前に出ていけないと、
上司が心配するシーンがありますよね。エステルでは、王様の前に出るのは、許可なしでは死刑の
対象でした。それだけ王の面前というのは気をつかう場面だったのです。ネヘミヤ、たぶん胃潰瘍
とかになったんじゃないかな。
・でも、ネヘミヤは落ち込んだ姿を隠そうとはしませんでした。これが意図的か、そうでないか
は分かりません。でも、ハッキリ書いてあるのは、2節、「私は非常に恐れて」ということです。
ネヘミヤは、最初は恐れていました。
・ネヘミヤは、一大決心を王様に伝えようとしていました。「エルサレムの城壁を建て直した
い!」
・それは簡単な申し出ではありませんでした。もし王様の機嫌を損ねたら、死刑もあり得ます。
先程も言いましたが、エステル記では、王様の前に出ることさえ、許可なくやったら死刑の対象
だったとあります。
・それだけでなく、エルサレムの工事を中断させたのは、エズラ4:23によれば、アルタクセ
ルクセス王、その人でした。工事を再開したいと願い出るのは、ある意味で、王様の政策は間違っ
ているということにもつながりかねません。
・これだけでも、ネヘミヤの行動は命がけだったとわかります。
・でも王様は、「何を望んでいるのか」とネヘミヤに聞きました。ネヘミヤ、チャンス!
・ここで、ネヘミヤがとった行動が、「王様にお願いする前に、天の神に祈る」という行動でし
た。
・これ、結構ヘンじゃないですか? みなさんも、職場の上司とか、バイト先の店長とかに、言
いづらいことを言うときに、面と向かって、「何が言いたいの?」と聞かれて、「ちょっと待って
ください、今神様に祈るんで」とか祈ったりしませんよね(笑)
・おそらくネヘミヤは、簡単に「神様、どうしたらいいですか」とか。「神様、語る言葉を教え
てください!」とか、ちょこっと瞬間的に祈ったんじゃないでしょうか。
・僕はこの瞬間的な祈りを、「ちょこちょこ祈り」と呼んでいます。
・ネヘミヤは、王様の前でも、まず神様に祈りました。
・僕たちも、生活の中で、たくさん祈れる瞬間があります。駅に歩いているとき、お皿洗いをして
いるとき、寝る前、食べる前、食べてる間、電車に乗っているとき、歯磨きしているとき、着替
えているとき、疲れているとき、仕事が終わった時、聖書を読んでいるとき、などなど・・・
・僕はよく、出勤する前、地下鉄の階段を降りながら祈っていますね。「あ~~神様、今日もあ
なたが一緒にいてください」とか。仕事がめっちゃ忙しくてきついときは、「あ~~~神様、マ
ジ無理。もう無理。助けて~~~」と祈ったり。
・僕は、高校生ぐらいまで、祈りは、ちゃんと手を組んで、落ち着いた場所で、時間をとってやら
なきゃいけないと思っていました。「お祈りモード」に入るというか。でも、高校生のときに、
ハワイからのミッションチームが来て。そのリーダーのハワイ人のおばちゃんが、礼拝堂の真ん中
で、大の字になって寝ながらお祈りしてたんですよね。
・その姿を見て、「ああ、神様の前には、どんな形とか姿勢とか関係ないんだ。心を向けること
が大事なんだ」と学びました。
・みなさんも、ぜひ生活の様々な瞬間に、祈ってみてください。「神様、どうすればいいです
か」「神様、体調をお守り下さい」「神様、子どもが言うこと聞きません。どうしかればいいで
すか。しからないべきですか」「神様、このファイルはエクセルで作るべきか、それともワード
で作るべきでしょうか」「神様、今アイスクリーム食べるべきでしょうか、我慢すべきでしょうか」
「神様、僕はビーフにすべきでしょうか、フィッシュにすべきでしょうか」「神様、どう祈ればい
いでしょうか」・・・etc。
・聖書にはこう書いてあります。「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)。
・文字通り「絶えず」祈っていたら、死んでしまいますね。他に何もできません。そうじゃなくて、
この「ちょこちょこ祈り」を、生活の中で実践しようという意味ではありませんか。
・もう「祈り」と「そうでない」時間を区別をつけるのはやめましょう。
・ある人は、「1日の10分の1の時間を祈りに捧げよう」と教えていたのを聞いたことがあり
ますが、そうすると1日2時間24分祈らないといけません。そんなの無理です。特に東京で忙
しく働いている人には・・・。
・そうではなくて、生活全部の中に、祈る姿勢を入れていこうではありませんか!
▼ポイント3:神様に「絶対的に」信頼する!
・では祈った後のネヘミヤの態度と、その結果はどうだったでしょうか。見てみましょう。5節
から8節。
5:王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダ
の地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください」
6:王は私に言った。王妃もそばに座っていた。「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来る
のか」王はこれを良しとして、私を遣わしてくださることになり、私は予定を伝えた。
7:また私は王にこう言った。「もしも王様がよろしければ、ユダに着くまで私が通行できるよ
うに、ユーフラテス川西方の総督たちへの手紙をいただけるでしょうか。
8:そして、宮の城門の梁を置くため、また、あの都の城壁と私が入る家のために木材をもらえ
るように、王家の園の管理人アサフへの手紙もお願いします」わが神の恵みの御手が私の上にあっ
たので、王はそれをかなえてくださった。
・ネヘミヤは、堂々と「エルサレムに帰って、その再建をさせてほしい」と願い出ました。
・王様に聞かれた質問にも、堂々と答えました。
・注目すべきは、7節と8節の、追加のお願いです。ネヘミヤは、最初は恐れていたのに、祈って
からめちゃめちゃ堂々と、図図しくなっています。
・ネヘミヤは、「通行許可証」(手紙)だけではなく、「都の城壁の建築資材」を求めました。
それだけではなく、「自分の家のための木材」もお願いしちゃいました。ネヘミヤ、ちゃっかり
してますね!!!
・でも、これは裏を返せば、神様への絶対的な信頼です。
・興味深いことに、ネヘミヤ記には、神様からの応答が書かれていません。ほかの旧約聖書を思
い出してください。アブラハムが祈ったら、神様が答えました。モーセもそうです。ヨシュアもそ
うです。ダビデもそうです。カギカッコで書いてありますね。
・しかし、このネヘミヤ記には一切、神様からの応答が書いていません。もしかすると、その前
の時代の人たちのように、「声」で神様の声が聞こえなかったのかもしれません。現に、サムエ
ル記には、神様が直接「声」で語らない時代もあったという記述もありますね。
・でも、ネヘミヤは神様に絶対的に信頼していました。最初は恐れがありました。でも、祈った
後の彼は、うってかわって神様への信頼に満ちあふれています。それゆえに、堂々と王様に対して
要求をすることができたのです。
・そして、その結果、必要なものを全て受け取ることができました。
・私たちも、自分の「召し」や「志」に対して、自信がなくなっていないでしょうか。確かに、
「自分」は頼れる存在ではありません。「みこころ」ではなく、「おこころ」だと、自信がなく
なってきます。
・でも、神様は絶対的に変わらないお方です。私たちは、この神様に信頼しています。イエスさま
は十字架で罪を代わりに背負って死なれ、蘇って完全に勝利しました。そして、いつか必ず帰っ
てきます。「この希望は失望に終わることはない」のです。
・自信がなくなっている時は、もしかしたら心の焦点が神様ではなく、自分自身になってしまって
いる可能性があります。
・みなさんも、自分の心を吟味してみてください。モチベーションには、必ず「たてまえ」と「ホ
ンネ」があります。「ホンネ」の方の「心の動機」をぜひチェックしてみてください。そして、自
分ではなく、絶対的に変わらない勝利者であるイエスさまに信頼して、堂々としようではありま
せんか。
・ちなみに、今回この箇所を読んでいて、私はある箇所が目に止まりました。6節を見てくださ
い。
・「王妃もそばに座っていた」とありますよね。
・これ、ヘンじゃないですか。王妃、関係なくない? でも、関係ないフレーズが挿入されている
ことには、必ず意味があります。
・この「王妃」とは誰でしょう。残念ながら、明確な記述はありません。でも想像はできます。
・時代背景を思い出してください。この王様、アルタクセルクセス王の前の王様は、クセルクセ
ス王、つまりアハシュエロス王です。アハシュエロス王の王妃は、エステルでした。
・今回、様々な註解書を調べてみましたが、明確な意見はないようです。この王妃という単語は
ヘブライ語で「シュガール」ですが、この単語はここと詩篇の中で1回の、合計2回しか聖書に
出てこない、極めて特殊な単語です。
・当時、王が死んだ場合、王妃が次の王の王妃となることは珍しいことではありませんでした。
ですから、もしかしたらこの王妃は「エステル」だった可能性があります。もしくは、エステルの
近親者や、教育を受けた者だった可能性もあります。僕は、エステルだったら面白いなと思います。
とある註解は断定調で「これはエステル以外に考えられない」とも書いています。
・ここで王妃に言及があるのはなぜでしょう。もしかしたら王妃が王に口添えをして、ネヘミヤ
をサポートするように促したという示唆かもしれません。もしかしたら、ユダヤ人に好意的な王
妃だったのかもしれません。
・いずれにせよ、エステルの記述から分かるように、王妃はいつも王のそばにいるわけじゃあり
ませんでした。
・でもその時はいた。その時王妃がそばにいたというのは、ネヘミヤにとって、神様の答えを知
る、ある意味での「しるし」だったのかもしれません。
・私たちも、神様に「集中的に」、また「瞬間的に」祈って行動した時、神様から何かしらの「し
るし」があるかもしれません。
・例えば、不思議な人間関係のつながりがあったり、聖書の言葉が目についたり、あることが頭
から離れなかったり、ずっと忘れていたことや人を急に思い出したり・・・などなど。
・神様からの「しるし」を探してみると、いいかもしれません。そうすれば、「絶対的な」信頼
をする助けになります。
▼まとめ
・まとめます。今回のメッセージを振り返りましょう。3つのポイントがあります。
1:神様に「集中的に」祈る。
2:神様に「瞬間的に」祈る。
3:神様に「絶対的に」信頼する。
絶対的な勝利者であるイエスさまに信頼しつつ、いつでも、どこでも、どんな時も・・・
祈りながら今週一週間を過ごしましょう。
終わります。
(おわり)