ヨシュア記9:3-15 『⑩ 内なる罪との付き合い方』 2019/08/25 松田健太郎牧師

ヨシュア記 9:3-15
9:3 ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、
9:4 彼らもまた策略をめぐらし、変装をした。古びた袋と、古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、
9:5 繕った古い履き物を足にはき、古びた上着を身に着けた。彼らの食糧のパンはみな乾いて、ぼろぼろになっていた。
9:6 彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約を結んでください。」
9:7 イスラエルの子らはそのヒビ人たちに言った。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」
9:8 彼らはヨシュアに言った。「私たちは、あなたのしもべです。」ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」
9:9 彼らは彼に言った。「しもべどもは、あなたの神、【主】の名のゆえにとても遠い国から参りました。主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべてのこと、
9:10 主がヨルダンの川向こうのアモリ人の二人の王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさった、すべてのことを聞いたからです。
9:11 私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。『旅のための食糧を手にして彼らに会いに出かけなさい。そして彼らに、「私たちは、あなたがたのしもべです。今、どうか私たちと盟約を結んでください」と言いなさい。』
9:12 これが私たちのパンです。私たちがあなたがたのところに来ようと出た日、それぞれ自分の家で食糧として準備したときには、まだ温かかったのですが、今はご覧のとおり、干からびて、ぼろぼろになってしまいました。
9:13 これがぶどう酒の皮袋です。私たちがこれらを満たしたときには新しかったのですが、ご覧のとおり破れてしまいました。これが私たちの上着と私たちの履き物です。とても長い旅のため古びてしまいました。」
9:14 そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、【主】の指示を求めなかった。
9:15 ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。

約束の地であるカナンに入ったヨシュアたちは、エリコとアイという町を倒しました。
その頃、カナンの人々の中にも、大きな動きが起こり始めます。

ヨシュア 9:1 さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、
9:2 ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。

ここに並べられているのは、みんな聖絶するように命じられていた人たちですね。
彼らが集まり、一つとなって、イスラエルに対する攻撃態勢に入ったのです。
ただ、この動きには少しおもしろい部分があります。
ここには、「これを聞くと」と書かれていますが、「これ」というのは彼らがエリコとアイを打ち破ったということについてということではなく、ヨシュアたちがエバル山に上って聖書のことばを読み上げたことに関して言っているということです。
ヨシュアたちが御言葉を読み上げるのを聞いたとき、彼らはそれに反応して敵対心を表し、イスラエルに対して牙をむきだしたのです。
その辺りに、彼らが聖絶されることになったのかということが表されているような気がしますね。
そして、神さまのことばが掲げられるとき、そこには敵対する力も強くなるということでもあるのです。

① ギブオン人の偽装
さて、反対する勢力の中で、他の部族とは協力せずに独自の動きをする人たちがいました。
それは、ヒビ人と呼ばれる中でも、ギブオンという町に住んでいた人たちです。
彼らは、ボロボロの服を着たりして自分たちを装い、遠くから旅をしてきたふりをしてヨシュアたちに近づいてきました。
そして、ヨシュアたちと同盟関係を結びたいと申し出たのです。

なぜでしょう?
それは、神が共にいるとしか思えないイスラエル人たちに、自分たちは勝つことはできないと考えたからです。
これまでの経緯から、カナンの地の住民はみんな殺されてしまうことがわかっていました。
そこで彼らは、遠くからやってきた流浪の民を装ってヨシュアたちの元に行き、ウソをついてでも同盟関係を結ぼうとしたわけです。

ギブオン人たちのウソは、かなり狡猾で、巧みなものでした。
ギブオン人たちが、遠くから来たことを表すウソの証拠を受け取り、それを信じてしまったのです。
そのときヨシュアたちは、決定的な失敗をしてしまいます。

9:14 そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、【主】の指示を求めなかった。

彼らは、主の指示を求めないで決めてしまったのです。
これは、彼らがアイの攻略で失敗したのと同じ失敗です。
神さまに尋ねず、自分たちの判断に頼る時、彼らは失敗します。
私たちもこういう失敗をよくしますね。

彼らはヒビ人でしたから、本来ならば同盟を結ぶどころか、聖絶されなければならないような人たちです。
彼ら自身の罪の裁きを受けることもそうですが、彼らから広がる偶像崇拝の影響を考えれば、やはり滅ぼさなければならないはずの相手だったはずです。
それは例えるなら、私たちが異端的な神学を信仰の中に取り入れてしまうようなものです。
そのことがきっかけとなって、信仰を失ったり、神さまとの関係が壊れてしまいかねない、一歩間違えれば致命的な状況となってしまったわけです。

② 内なる罪との付き合い方
しかし、そんなウソを長い間つき通すことなんてできません。
盟約を結んでから3日後、実は彼らが、10kmくらいしか離れていないギブオンに住んでいる人々だという事が判明してしまいます。

「お前たちウソをついていたのか! やっぱり皆殺しだ」となりそうなものです。
本来は全て聖絶してしまわなければ、アカンのように自分たちが聖絶のものとなってしまいかねません。
ところが、これはこれで簡単な問題ではないのです。
すでに神さまの名のもとに盟約を結んでしまっていますから、それを破って彼らを殺せば今度は神さまの名のもとに結んで約束を破るという別の罪を犯すことになってしまうからです。

もちろん、ギブオン人の方から約束を破るなら話は別です。
内部に入り込んで内側からイスラエルを倒してしまおうとしているならば、ウソが判明した今、すぐにでも彼らを殺すべきでしょう。
それを確かめるため、ヨシュアは彼らに、ウソをついてまで盟約を結んだ理由を追求します。
すると、彼らはこのように答えました。

ヨシュア 9:24 彼らはヨシュアに答えた。「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、【主】がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。
9:25 ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」
9:26 ヨシュアは彼らが言うようにし、彼らをイスラエルの子らの手から救った。それで彼らは殺されなかった。

彼らに敵意がないことを知った今、イスラエルの人たちはギブオン人に手を出すことはできません。
しかしギブオン人たちは、予想以上にイスラエルの神を恐れ、彼らの軍門に下ることを望んでいたこともわかりました。
言ってみれば、「悔い改めてあなたたちとその神さまに従います」と表明したわけです。
そこで彼らは、このギブオン人との盟約を受け入れることになったのです。

とは言え、彼らは聖絶されなければならないような状態になった人々です。
そう簡単に信用するわけにもいかないので、自由にさせておくわけにもいきません。
彼らはイスラエルに仕えることとなりましたが、特別な役目が与えられました。

ヨシュア 9:27 ヨシュアはその日、彼らを会衆のため、また【主】の祭壇のため、主が選ばれる場所で薪を割る者と水を汲む者とし、今日に至っている。

こうして、ギブオン人たちは神の宮で働く人々となったのです。
これによって、彼らは常にイスラエルの人々に見られるようになりました。
そして神殿で仕えることを生業とすることによって、偶像崇拝をしないように見張ることができました。

私たちもまた、思いがけず神さまから離れるような習慣を取り込んでしまうことがあるかもしれません。
私たちの肉に属する思いや行動が、そのような習慣になっていきます。
私たちは、それを放置するのではなく、それを神さまに持って行く必要がありますね。
そうして、罪が暴れだすことなく、手綱をかけることになるのです。

③ 聖絶に定められた人々の救い
さて、この出来事はもうひとつのことを示唆しています。
それは、聖絶が定められていたようなギブオンにも、恵は与えられるということです。

ギブオン人たちは聖絶されませんでしたが、それによってヨシュアたちが罰せられることはありませんでした。
それどころか、この時に結ばれたのちの時代まで続いて行ったことが聖書には記されています。

Ⅱサムエル 21:1 ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは【主】の御顔を求めた。【主】は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」

それは、この時代までギブオン人たちが忠実に仕え続けていたことを表してもいます。
元々彼らは、本当の意味で神さまを信じ、その信仰によって救われたのかと言えば、かなり微妙な部分だと思います。
彼らは、裁きを受けたくなかったから、滅ぼされたくなかったからヨシュアたちに従ったのです。
それでも彼らの上に恵みが注がれたのですから、これはグッドニュースですよね。

私たちも諦めていたような家族や友人が、よくわからないけど洗礼を受けると言い出した。
本当の意味で神さまとの関係を築き、信仰があるとは言えないような状態かもしれないけれど、それでも彼らには救いの恵みはあるのだと思います。
もちろん、彼らがイエスさまとの関係の中で生きられれば一番いいですが、最初の動機が自己中心的なものであったとしても、その人たちの上にも救いの恵みは注がれるのです。
私たちはいつまでも希望を持って、彼らのために祈っていこうではありませんか。