ヨシュア記11:26-32 『⑪ 戦いの果て』 2019/09/08 松田健太郎牧師

ヨシュア記 11:16-23
11:16 ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。
11:17 彼は、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとの、レバノンの谷にあるバアル・ガドまでを攻め取った。その王たちをことごとく捕らえ、彼らを討って殺した。
11:18 長い間にわたってヨシュアはこれらすべての王たちと戦った。
11:19 ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。
11:20 彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、【主】から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、【主】がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。
11:21 そのときヨシュアは行って、アナク人を山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断った。その町々とともにヨシュアは彼らを聖絶した。
11:22 こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。
11:23 ヨシュアはすべて【主】がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。

約束の地であるカナンに入り、そこにいた人々を聖絶するというのが、ヨシュア記の話でした。
先週までの所では、まずエリコを倒し、次にアイを倒し、その後はカナンの南部を一気に倒してしまったというところでしたね。
ヨシュアたちはそのまま一気にカナン全域を攻め進み、ついに戦いが終わるのが今日読んでいただいた11章です。
11章はこのように締めくくられています。

11:23 ヨシュアはすべて【主】がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。

今回このメッセージのシリーズをやって驚いたのは、カナンでの戦いはこんなに早く決着がついたのかという事でした。
もう少し長く戦いについて書かれていた印象があったんですね。
ヨシュア記は26章までありますので、章で言えばまだ半分に行く前に戦いは終わってしまうのです。
この後長く描かれているのは、土地の分配についてですね。
ここから先は1章ずつ見ていくのではなく、一気に進んでいくと思います。

カナン攻略がこんなにも早く終わってしまったことに関しては、二つの理由があると思います。
第一に、これは神さまが戦う戦いだったという事。
神さまが戦う時、私たちは決して敗北を見ることはなく、神さまの力によって勝利し、進んでいくことができるのです。

第二に、ヨシュアがすでに高齢だったという事です。
この戦いの将軍はイエスさまだったとは言え、ヨシュアが人々をまとめるリーダーだったことに変わりはありません。
そして、戦いを続けていくことは難しくなっていったのです。

だから、戦いはここで終わることにはなったものの、聖絶を命じられていたすべての民族を滅ぼして訳ではありませんでした。
ここからは、次の世代に委ねられることになったのです。

今日は、ヨシュアたちのカナンでの戦いを通して学んだことを分かち合っていきたいと思います。

① 戦いによって内面が成長する
ヨシュアたちの戦いで学んだ第一のことは、私たちは戦いを通して成長するという事です。
もちろん、現代の私たちが直面する戦いは、この時代のように必ずしも殺し合いの戦争だというわけではありません。
でも、私たちはいろんな戦いに直面するのではないでしょうか。

例えば、一番多いのは人間関係の中での戦いではないかと思います。
職場や学校で、気の合わない人と一緒に何かをしなければならないことってありますよね。
ウチも、最近までベスが上司との戦いに明け暮れていました。
退職した今でも、未払いの給与のことで戦い続けています。

あるいは、家庭が戦いの場になっていることもあるかもしれません。
「もう、毎日が戦いです」という家庭も、決して少なくはないのが現実です。

ビジネスやスポーツ、格闘技、代わったところでは囲碁や将棋の世界にいるなら、実際に勝利しなければならない敵がいることも多いでしょう。

そして、相手が人間ではない場合と言うのもあります。
例えば、病気との戦いの中にある人もいると思います。
これもまた、大変な戦いですね。
そして多くの戦いが、結局は「内なる自分との戦いである」という事も出来るのではないでしょうか。

どうして私たちは、このような戦いと直面しなければならないでしょうか?
それが神さまの戦いなのであれば、神さまが全て勝ち取って下さればいいのにと思うのですが、多くの場合、その戦いには私たちも参加しなければなりません。
そしてその時には、必ずしも勝利できるとは限らない戦い、私たちは直面しなければならないのです。

なぜ戦わなければならないのかと言えば、それが私たちの成長に繋がるからだと思います。
戦いがなければ、私たちは楽な方がいいですから、怠けて何もしなくなってしまうかもしれません。
しかし目の前に戦いがあるなら、私たちは戦わなければならないし、勝利したいと願って行動する者だからです。

② 戦いによって神さまとの関係が成熟する
私たちに戦いが必要な第2の理由は、戦いによって神さまと私たちとの関係は深まるからです。
戦いがある時、私たちは神さまに助けを求めるのではないでしょうか?
それどころか、何か困難な状況がない限り神さまに祈り求めることもないという人もいるのではないかと思います。
そして、普段は神さまを信じていない人たちでさえ、戦いがあるときには神さまを求めるものなのです。

その戦いの中で、私たちは神さまの導きを求め、それに従おうとします。
そのような経験を重ねていくなら、そこに神さまとの関係は深まっていきます。
セレブレイト・リカバリーと言うミニストリーは、私たちが直面している問題と向き合うための働きです。
その働きは、「問題を解決することができるのは自分ではなく、神さまです」ということを認めるところから始まります。
そして、神さまに助けを求めていくことの中で、自分が抱えている問題からの解放を求めていくのです。

ヨシュアたちもそうでした。
彼らはカナン攻略の戦いを通して、神さまに従って戦い、委ねることを覚えていきました。
失敗をして痛い経験をしたこともありましたが、そんな失敗を通しても神さまをより深く理解し、関係は深まっていきます。
たくさんの戦いを経験したヨシュアたちは、神さまに聞き従うことが当たり前のことになっていきました。

戦いがあれば、必ず神さまとの関係が深まるというわけではないかもしれませんが、多くの人たちにとってよいきっかけとなることは確かなことなのだと思います。

③ 戦いによって愛の関係が深まる
私たちにとって戦いが大切な第三の理由は、私たちが一緒に戦うことを通して、私たちの互いの関係も良くなっていくからです。

イエスさまが私たちに命じていた大切なことのひとつに、「互いに愛し合う」ということがありました。
このように言っていましたね。

ヨハネ 13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

でも実際には、関係が近くなればなるほど互いの嫌な部分が見えたりして、愛し合うことが難しいと感じたりします。
クロスロードではあまりそういうことはないと良いなと思うのですが、多くの教会の方から、ドロドロした人間関係で苦しんでいるという相談を受けることもあります。
では、どうすればいいのか?
それは、夫婦の関係と同じようなことが言えるのだと思います。

どういうことかというと、私たちが互いを見ることを止めて、一緒に同じ方向を見るようにするという事です。
私たちは、キリストに合って一つの体なのです。
そんな私たちが、互いのことを見てずるいとか、自分と同じことをしろというのはおかしな話です。
しかし大切なのは、私たちがみんな、頭であるイエスさまに従うということです。

私たちは、イエスさまに従って、力を合わせて戦います。戦いの中で果たす役割はそれぞれに違いますが、それぞれが世の人々を愛し、人々に仕えていくわけです。
その戦いの中で、私たちは互いに協力し合い、絆が深められて行きます。
そんな戦いの中にあるからこそ、私たちは互いに愛し合い、互いを磨き合うことができるようになっていくのです。

神さまが直接手を下すのではなく、この時にはイスラエルの人々を通してカナンの地と戦うことを命じた。
それは、もともと仲が悪かったイスラエルの人々の中に一致が生み出され、ともに神さまを見上げ、整えられていくために必要なプロセスだったのだと思うのです。

私たちもまた、そのようなプロセスの中にあります。
現代の社会の中で私たちが直面する戦いの中に、私たちは主に従うものとして参加していく必要があるのです。
神さまの力が、皆さんとともにありますように。
祈りましょう。