士師記2:1-5 『聞き従わないなら』 2019/10/27 松田健太郎牧師

士師記 2:1-5
2:1 【主】の使いがギルガルからボキムに上って来た。そして言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの父祖たちに誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない。
2:2 あなたがたは、この地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
2:3 それでわたしも言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる。』」
2:4 【主】の使いがこれらのことばをイスラエルの子ら全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。
2:5 彼らはその場所の名をボキムと呼んで、その場所で【主】にいけにえを献げた。

前回は士師記から3つのことを学びました。
①神さまに尋ねること、②神さまは答えてくださる方だということ、そして③神さまには従わなければならないということでしたね。

ヨシュアが死んだ後も、イスラエルは神さまに尋ね、聞き、従いました。
それによって、イスラエルはその後も、自分たちの領地を増やしていったのです。
しかし、それが長く続くことはありませんでした。
残念なことに、イスラエルは次第に神さまから離れていくことになったのです。

今回は、先週のお話の逆バージョンです。
先週は、神さまに従うときに起こる祝福についてお話ししましたが、今回は神さまに従わないとどうなってしまうのかということについて一緒に考えてみたいと思います。

① 慣れの恐さ
さて、神さまに従っている限り、神さまは彼らと共にいて、そこには特別な神さまの守りがあるはずでした。
にもかかわらず、イスラエルが神さまから離れてしまったのは、なぜだったのでしょう?
聖書の中には、その動機を明確に表している言葉はありません。
でも、彼らの中には驕りからくる油断のようなものもあったのではないかと思います。
驕りや高ぶりは、誰の中にも簡単に起こってしまうものだからです。

私たちは、どんなことにも慣れてしまう性質を持っています。
それは良い面もあって、私たちは慣れることができるから、いつまでも苦しまなくていいという部分もありますね。
最初は苦痛にしか感じないトレーニングも、慣れてくれば毎朝走ったり、筋トレしなければ気持ち悪いという状態にもなります。

辛いことにも慣れてくれば、例え状況が変わらなくても、やがて乗り越えられるようになることもあります。
慣れることは、神さまが与えた「適応能力」という賜物なのです。

一方で、私たちは良いことにも慣れてしまうという副作用もあります。
私たちは慣れてしまうので、良かったことが普通になってしまったり、もっと大きな刺激を求めるようになります。
最初は喜んでいた神さまの祝福も、だんだん慣れてくるに従って、それが当たり前のものであるかのような錯覚に陥るのです。

イスラエルの人々は、神さまがともにいて助けてくださることの祝福に慣れてしまい、それを当然のものであるかのように考えました。
やがて彼らは、神さまに従うことよりも、目先の欲望や楽な道を選択するようになっていったのです。

祝福は当たり前のものではありません。
神さまは私たち祝福を与えたいと願っていますが、それは私たちが神さまに従った結果得られるものでもあるのです。

私たちは、神さまが与える祝福を当たり前のもだと思っていないでしょうか?
それは、受けて当たり前のものではありません。
神さまに従うという行動を起こさない限り、神さまが与えようとしている祝福を受け取ることはできないものなのです。

② 偶像に仕える
イスラエルには、もうひとつ問題がありました。
それは、カナンで崇められていた偶像に価値を見出し、偶像崇拝をするようになっていったということです。

偶像崇拝とは何でしょう?
この時代には、イスラエルの人々がまことの神さまから離れ、この地域で信仰されていたバアルに仕え、崇めるということでした。

バアルを信仰する異教が悪いとか、他の宗教がまずいのかというと、それだけのことではありません。
神さま以外の何かに仕え、従うということが問題なのです。
すべては、私たちの心を神さまから引き離し、違う価値観を植え付けるものだからです。
私たちが神さまから離れるなら、私たちは愛から離れます。
私たちは自らの欲望を満たすことに心を奪われ、優先するようになります。
神さまの声を求めなくなりますし、何よりも自分が満たされることを求めるようなるのです。

その危険性が、私たちにもあります。
特に危ないのは、お金とか、自分の価値観や感情かも知れません。
私たちの人生にもっとも影響力のある物であり、私たちを動かす力を持っているからです。
金銭や人間関係に振り回されてはいませんか?
その背後には、神さま以外のものを神さま以上に求める偶像崇拝があるかもしれません。
そして偶像崇拝は、私たちを神さまから遠ざけ、祝福をすべて奪い取る力をもった恐ろしいものなのです。

③ 偶像崇拝がもたらすもの
偶像崇拝は、神さまが忌み嫌うことで、十戒の中でも禁じられています。

出エジプト 20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

神さま以外を神とはしないという契約は、どれほど厳しい約束だったかということが見て取れます。
そしてこれは、彼らの祖父たちがモーセの時代に結んだ過去の契約ということではありません。
ヨシュア記の最後では、彼ら自身が「神さまに従います」という信仰の決意を表明しています。

ヨシュア記 24:23 「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、【主】に心を傾けなさい。」
24:24 民はヨシュアに言った。「私たちの神、【主】に仕え、主の御声に聞き従います。」

これは、彼ら自身のことばであり、決意であるはずでした。
ところが、ヨシュアの死後、彼らはこの言葉を覆し、神さまから離れ、偶像を崇めるようになってしまったのです。

その結果、何が起こったか?
神さまは、彼らにこのように伝えました。

士師記 2:2 あなたがたは、この地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
2:3 それでわたしも言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる。』」

イスラエルは、神さまの守り、神さまの力、神さまが戦ってくださるという祝福を失ってしまったのです。
それを知ったイスラエルの人々は、自分たちがしてしまったことの大きさに気づいて泣きました。
しかし、時はすでに遅しです。
与えられていた祝福の素晴らしさは、失った時に初めてわかるものなのです。

私たちは、こんな風に神さまの祝福を失いたくないですね。
いつも気をつけていないと、私たちは知らないうちに偶像の影響を受け、振り回されることになります。
そして、いつも神さまを第一とし、神の国を求め続けることが大切なのだと思います。
こころが騒ぐ時には、特に気をつけてください。
それは、私たちの心が神さまから離れそうになっているサインかもしれないからです。

神の国と、その義とを、第一に求めることができるものでありますよう