士師記2:7-19 『旧約聖書の神さまは恐い?」 2019/11/03 松田健太郎牧師
士師記 2:7-19
2:7 ヨシュアがいた間、また、【主】がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は【主】に仕えた。
2:8 【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
2:9 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・ヘレスに葬った。
2:10 その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、【主】を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。
2:11 すると、イスラエルの子らは【主】の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。
2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、【主】の怒りを引き起こした。
2:13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
2:15 彼らがどこへ行っても、【主】の手は彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、【主】が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。
2:16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。
2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それらを拝んだ。彼らの先祖が【主】の命令に聞き従って歩んだ道から早くも外れて、先祖たちのようには行わなかった。
2:18 【主】が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。
2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。
今日は、士師記から3回目のメッセージとなります。
実は3回目にして、士師記の中では2章ですでに、士師記のテーマは何なのかということが記されています。
「旧約聖書の士師記は、どういう話しなんですか?」と聞かれたら、この聖書箇所を読んであげれば答えになるのではないかと思います。
それをさらにシンプルにお話しするとこんな感じです。
第一に、ヨシュアの次の世代は神さまから離れ、祝福を失ったということ。
第二に、祝福を失って危機に陥ったイスラエルは、神さまに助けを求めたということ。
第三に、イスラエルは神さまからの助けを受けたけれど、それによって神さまとの関係が回復することはなかったということ。
士師記の中では、神さまから離れて祝福を失い、危機に陥ったときに神さまに助けを求めて救い出されるというパターンが何度も繰り返されるのです。
今日はこのことについて、もう少し細かくお話ししてみたいと思います。
① 新しい世代
この時代のイスラエルが、どうして神さまから離れてしまったのか、それは信仰をうまく継承できなかったということが大きな原因でした。
こんな風に書かれていましたね。
士師記 2:10 その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、【主】を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。
2:11 すると、イスラエルの子らは【主】の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。
ヨシュアや長老たちの時代の後には、「主を知らず、イスラエルのために行われたわざも知らない世代」が起こりました。
この世代は、教育としては神さまのことを教えられていたことだろうと思います。
しかし問題は、彼らは神さまを個人的には体験していなかったということです。
そうして神さまから離れた世代の人々は、バアルを信仰するようになりました。
バアルというのは、カナンで信仰されていた偶像の神のことです。
「バアル」というのはカナンのことばで「主」という意味のことばなので、さまざまな神々が信仰されていたということだと思います。
現代のキリスト教も、同じような問題に直面しますね。
世代を超えた信仰継承は、どうして難しいのでしょうか?
一番大きな原因は、神さまご自身を伝えるのではなく、知識やルールを伝えようとしてしまうことではないかと僕は思っています。
神さまを知った人が、「もっと知りたい」と思って知識を得ようとすることや、正しい行いをしたいと願うことは当然のことだと思います。
しかし、神さまを知らない人に知識やルールばかり教えたのでは、退屈だし窮屈な印象を与えるだけでしょう。
知識やルールばかり教えられてきた人たちが罪に対してオープンなバアルに惹かれてしまうのも、当然のことかもしれません。
私たちが伝えなければならないのは、知識ではなく、まず神さまご自身であり、神さまと共に生きることの体験です。
そのためには、私たち自身が神さまを体験し、喜びの中にいなければなりません。
そうでない限り、私たちが次の世代に神さまと生きることを伝えることはできないからです。
皆さんは、神さまを体験していますか?
神さまと共に生きることを喜んでいますか?
まず自分が楽しんでいないで、どうして次の世代に受け継ぐことができるでしょう?
逆に、私たちが神さまと共に生きることを喜び、楽しんでいるなら、知識なんて伝えようとしなくても、勝手に「もっと知りたい、学びたい」と思うものなのではないでしょうか?
② 神さまの助け
さて、神さまから離れてしまったイスラエルの人々の上には、災いが下ります。
イスラエルからは主の守りが消え、敵に襲われればそのまま倒されてしまうような状況に、置かれることになったのです。
士師記 2:13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
2:15 彼らがどこへ行っても、【主】の手は彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、【主】が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。
大切なのは、神さまから離れた結果がどうなるかということを、神さまに教えられていたということです。
それでも彼らは、そんな神さまの言葉を侮り、結果として祝福として与えられていた守りと勝利を、約束通りに失うこととなったのです。
当たり前といえば当たり前の話であり、全く自業自得ですが、彼らは大いに苦しむことになりました。
しかし、話はそこで終わりません。
大いなる苦しみを体験する彼らは、その時になってやっと、自分たちが失ってしまった祝福の大きさに気づきます。
そして彼らの心は、救いを受けたい一心で神さまに向かい、神さまを再び求めるようになりました。
「神さま、私たちが間違っていました。どうかお赦しください。」
「私から離れると大変なことになるよ」と言われていながら、神さまを裏切って偶像崇拝をしていたのに、そんな虫のいい話なんてあるものかと思います。
ところが、そう言って悔い改めるイスラエルの人々を、神さまはあっさりと赦してしまうのです。
士師記 2:16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。
さばきつかさというのは、この時代のリーダーですね。
士師記の「士師」という言葉は、このさばきつかさのことを表しています。
王様のような地位があるわけではないけれど、神さまから特別に選ばれて、預言者とも祭司とも違う働きをします。
多くの場合、彼らは戦いのリーダーとなって、攻めてくる異邦人たちを倒し、イスラエルを勝利へと導き、彼らは救われてしまったのです。
③ 関係は回復したか?
「神さまから離れれば祝福を失う」ことを何度も言い聞かされてきて、それでも神さまを捨て、偶像に頼ろうとしたなら、神さまの裁きを受けても仕方がないことだと思います。
それまでに散々警告されていたわけですから、それでも裏切るのは彼ら自身の問題です。
ところが神さまは、「ごめんなさい」と言ったらあっさりと赦して、助けてくださる。
「新約聖書の神さまは愛だけど、旧約の神さまはこわい」なんて誰が言ったのでしょう?
優しいにもほどがあると思いませんか?
そもそも、イスラエルは本当に悔い改めて、神さまに立ち返ったのかと言えば、そうではなかったことがわかります。
彼は災難が過ぎると、またすぐに神さまに背き始めたのです。
士師記 2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それらを拝んだ。彼らの先祖が【主】の命令に聞き従って歩んだ道から早くも外れて、先祖たちのようには行わなかった。
非常に悲しい現実ですが、イスラエルは神さまから離れ、裁きを受けては悔い改め、救われるのにすぐにそのことを忘れて神様から離れる。
士師記はこの繰り返しの話です。
そして私たちも、イスラエルのことを呆れている場合ではありませんね。
神さまは、こんな私たちのためにも地上に来て、十字架にかかって命を投げ出してくださいました。
それでも私たちは、何度も神さまのことを忘れ、離れてしまう。
7の70倍以上裏切ってしまうような私たちを、神さまは終わりの時が来るギリギリまで赦し続けてくださるのです。
私たちはいつまで、そんな神さまのやさしさに甘えているのでしょうか。
その度に傷つき、悲しむ神さまの顔は、もう見たくありませんよね。
神さまに立ち返りましょう。
そして、神さまと共に歩み続けませんか?