士師記3:1-9 『さばきつかさたち』 2019/11/10 松田健太郎牧師
士師記 3:1-9
3:1 次が、【主】が残しておかれた異邦の民である。主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、
3:2 ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった。
3:3 すなわち、ペリシテ人の五人の領主たち、またすべてのカナン人、シドン人、そしてヒビ人である。ヒビ人は、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテにまで及ぶレバノンの山地に住んでいた。
3:4 これは、彼らによってイスラエルを試み、【主】がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るためであった。
3:5 イスラエル人は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、
3:6 彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。
3:7 こうしてイスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを行い、彼らの神、【主】を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた。
3:8 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの子らは八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。
3:9 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。
聖書の中の士師記というところを読んでいますが、今回で4回目のお話ですね。
前回も少しお話ししましたが、士師記の「士師」というのは、別のことばで「さばきつかさ」と言います。
さばきつかさという人たちは、イスラエルの中の部族のリーダーたちで、それぞれの時代、敵からの脅威に立ち向かい、戦った人たちです。
王様と違って世襲制ではないのですが、神さまからリーダーとして選ばれた人たちであり、神さまによって用いられた人たちでもありました。
士師記には13人のさばきつかさが出てきます。
ひとりひとりについてじっくりお話しする余裕はないのですが、一応ザックリと、全員の照会ができるといいですね。
今回は、最初の5人について紹介したいと思います。
① オテニエル
神さまが、最初のさばきつかさとして選んだのは、オテニエルです。
オテニエルは、ヨシュアと共にカナンの地に偵察に行ったカレブの義理の息子です。
カレブの娘アクサと結婚することになった経緯については、士師記の1章の中で記されていますが、オテニエルはキルヤテ・セフェルという町を陥落させた英雄でもありました。
さて、「イスラエルが主の目に悪であることを行った」ことによって、神さまの守りを失い、アラム・ナハライムという国の支配下に下ります。
そこにこのオテニエルが立ち上がり、アラム・ナハライムの脅威からイスラエルを救い出したのです。
② 左利きのエフデ
イスラエルは、アラムの脅威から救われた後40年の平和を与えられますが、やがて再び神さまから離れ、「主の目に悪であることを行う」ようになります。
するとモアブ人たちが強くなり、イスラエルに攻め込み、18年間支配したのです。
そこに、2番目のさばきつかさとして選ばれたのは、左利きのエフデという人でした。
なぜ「左利きのエフデ」という通り名で呼ばれているかというと、左利きであることを利用して、敵を倒したからです。
その方法は、気づかれにくい右モモに小さな剣を隠し、アラムのエグロン王をだまし討ちするという方法です。
神さまが好むのは、まじめで正々堂々と戦うことのように思いますが、案外こういうずるい人たちも神さまに用いられています。
私たちは私たちで、まじめに生きたらいいと思いますが、様々な人たちや出来事が神さまの目的のために用いられるということですね。
③ シャムガル
3人目のさばきつかさはアナトの子シャムガルです。
彼は牛を追う棒で、600人のペリシテ人を打ち殺したとだけ書かれています。
怪力の持ち主だったのか、武術でも使ったのか、三国志演義にでも出てきそうな英雄ですね。
ペリシテ人は、地中海から渡ってきた海の民族で、この後もイスラエルを苦しめることになりますが、この時はシャムガルの活躍によってイスラエルは救われたのです。
④ バラクとデボラ
イスラエルは再び神の目に悪であることを行いました。
ハツォルというカナン人の町を治めていたヤビンが、イスラエルを倒し、20年の間支配下に置きました。
そこでさばきつかさとして選ばれたのは、バラクとデボラというふたりのさばきつかさです。
ふたりで一組となるのはめずらしいですが、中心となっていたデボラが女預言者だったということが、ひとつの理由となっているようです。
女性が先頭になってリーダーシップをとることは難しい時代でしたし、何より肉体的な戦いでは男性の方が圧倒的に有利です。
だから、聖書には何人もの女預言者が出てきますが、基本的には男性がリーダとされています。
預言者の仕事は神さまのことばを伝えることですから、必要に応じてそれを人々に伝えますが、神さまが命じる声にこたえて実際に戦うのは、腕の立つバラクです。
そんな理由もあって、神さまはバラクとデボラの両方をさばきつかさとして選んだわけです。
さて、ふたりのさばきつかさが、ともに神さまに命じられたことがありました。
士師記 4:6c『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。
4:7 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」
女預言者デボラがそう言ってバラクに促すと、バラクはこのように答えます。
士師記 4:8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」
さばきつかさとして選ばれてはいましたが、バラクには問題がありました。
それは、彼が依存的で積極性に欠けていたということです。
神さまから命じられたことはありましたが、自分だけではやりたくない。
「デボラが一緒に行ってくれるなら…」「デボラが一緒にやってくれるならやりますよ」と言うのです。
「みんながやるなら私もやる」という価値観は、日本人にありがちな価値観ですよね。
自分が神さまに命じられたことでも、他の人たちがやらないならやりたくない。
周りの人たちと同じことをやっていたいという思いです。
それは、与えられている責任を放棄することでもあるように思います。
神さまは時として他の誰もやったことがない、特別なことを命じられますよね。
大切なのは、私たちが神さまに従って行動することです。
失敗することを恐れて行動に移さないと、そこには問題が起こるのです。
デボラはこのように言っています。
士師記 4:9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。【主】は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。
「行くか、行かないか」、「やるか、やらないか」よりも大切なことがあります。
それは、「私たちが誰に従うのか」ということです。
神さまの声を聞いていても、周りを見ながら判断を他の人たちに委ねていたのでは、ほかの人たちに従っているのと同じです。
私たちは、自分の意志で、自分の判断によって、神さまに従う必要があるのです。
バラクは判断をデボラに委ねてしまったことによって、敵を倒して英雄になるという栄光を受ける祝福を受けることができませんでした。
彼らの行動が無意味だったわけではないのですが、得られるはずだった祝福は他の人のものとなってしまったのです。
私たちはどうでしょうか?
神さまが私たちに「しなさい」ということは、時として他の誰もしたことがないような新しいことです。
私たち一人一人は、特別なものとして、ユニークに作られているのですから当然ですね。
でも、そんな神さまの声に従うということは、時に周りから浮いて、たくさんの人たちから批判されることもあります。
それでも、周りの人の目をうかがうだけでは得られることができないものがあるのです。
神さまはこのように言います。
イザ 42:9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」
多くの人々の批判を受けながらも、神さまに従ったパウロは、このように告白しています。
Ⅰコリ 2:9 しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
神さまは、皆さんに何を命じていますか?
それが本当に神さまからのものかということを見極める必要はありますが、そこに確信を持つことができるなら、私たちは迷いながらも従うべきです。
伝統や、常識ではなく、神さまの計画を信じましょう。
神さまは世界で最も優れた発明家であり、イノベーターなのですから。