創世記3:9-15 『救い主の誕生』 2019/12/22 松田健太郎牧師

創世記 3:9-15
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」
3:11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 神である【主】は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」
3:14 神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。
3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

今からおよそ2020年前、イエスさまが、ナザレの大工の息子としてこの地上に生まれました。
人類の歴史はそこを境にして大きく変わり、私たちはそのことをクリスマスとして祝いますから、そのことを知っている人は多いと思います。
でも、どうしてそれが人類の歴史を変えるほど大きな出来事だったのか、そもそもキリストが十字架で死ぬことによって、どうして私たちの罪が赦されるという話になるのか、それが結局何を意味しているのかということを説明できる人は、意外と多くはありません。
「何かを知っている」とか、「解っている」ということが救いの条件ではないからですね。

でも、今日はクリスマス礼拝というせっかくの機会が与えられていますから、どうしてイエス・キリストが必要なのかということについて、一緒に考えてみたいと思います。

① 神と人
イエスさまのことを理解するためには、まず神さまと私たちとのことを理解する必要があります。
聖書で神さまというのは、この世界の創造主のことです。
日本で「神さま」というと、何か物や人に宿っていたりするスピリチュアルな存在という感じがしますから、それとは違いますね。
あるいは、願いを叶えてくれたり、良いことをしてくれる存在というイメージがありますが、私たちの都合に合わせて何かをしてくれるのが神さまではありません。
神さまが主体であって、私たちは本来作られた存在でしかないのです。

神さまは、私たちを「愛する存在」として創造されました。
神さまを愛し、互いに愛し合う存在です。
神さまを愛するというのは、神さまと対話をし、神さまに従うということです。
愛である神さまに似せて創造された私たちは、神と互いを愛するのです。
このように愛の関係の中に作られたこの世界は、素晴らしい世界だったのです。

② 罪と裁き
「罪」とは何でしょう?
「すべての人は罪人である」と言われても、「自分は別に悪いことはしていない」と思ってしまいますよね。
「何をすることが罪で、何をすることは罪ではないのだろう?」という発想になってしまうと、聖書に書かれている罪の本質からは離れてしまうのです。

聖書の中で言う罪とは、神さまとの愛の関係が壊れてしまった状態のことです。
聖書の中では、人の代表であるアダムが、神さまに禁じられていた善悪の知識の木から取って食べた出来事の中で、それが表現されています。

創世記 2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

死ぬというのは、神さまとの関係が完全に破壊されてしまうことを意味していました。
そしてそれは、神さまとの永遠の断絶を意味してもいます。
しかし、そんな大きなリスクがあったにもかかわらず、人は神さま以外のものに聞き従い、神さまとの関係は壊れてしまいました。

だから私たちは、神さまと対話しようとしませんよね。
そして神さまが創造した自分や他の人たちを傷つけ、この世界を平気で壊します。
神さまを思う時にも勝手なイメージで神さまを作り出し、自分の願いを叶えてくれるのが良い神さま、思い通りにさせてくれないのは悪い神さまと決めつけます。
神さまの価値観ではなく、自分で決めた善悪によってすべてを裁き、神さまさえも自分の物差しで計ろうとするのです。

私たちはみんな、そのような傾向を持っているのではないでしょうか?
すべての人が罪人であるというのは、そういう状態のことを言うのです。

③ 悪魔の囁き
人は、どうして神さまに背いてしまったのでしょうか?
そこには、人の心を神さまから離れるように誘惑する、悪魔の存在がありました。

不思議なことに、「神さまの存在は信じられないけれど、悪魔の存在は信じている」という人は意外とたくさんいます。
でも悪魔は、人に取りついて彼らを思いのままに操るわけではありません。
悪魔がするのは、ただ囁くだけ。
人の心を動かし、刺激して、神さまとは反対の方向に導いているだけなのです。

アダムとエバは、そんな悪魔の囁きに乗って、神さまに背いてしまいました。
私たちもまた、悪魔の囁きに乗りっぱなしになってしまってはいないでしょうか?
それが悪魔の声であるということを意識しないままその声の言いなりになって神さまから離れ、そのことに気づかないまま生きているということも少なくはないのです。

④ 神の裁き
こうして、人は神さまから離れ、悪魔の声に動かされていることにすら気づかない状態になってしまいました。
そのような話の流れの中で、今日の聖書箇所のような神さまのことばに繋がるわけです。

神さまは、その言葉の最後に少し不思議なことを言っています。
その部分だけ、もう一度見てみましょう。

創世記 3:15 わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

「敵意をおまえと女の間に、お前の子孫と女の子孫の間に置く。」
この辺りまでは、だから女性は蛇か嫌いなのかなぁくらいに思えるのですが、問題はその後です。
「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」
ここに出てくる「彼」とは誰でしょう?
これは、話の流れからして「女の子孫」のことだということがわかります。
「女の子孫」なのであれば、「彼女」とか、「彼女たち」になるはずではないかと思うのですが、ここでは「彼」と単数形の男性として書かれているのです。

この言葉を、少し解りやすく言い換えてみましょう。
「遠い未来、おまえを倒すものが女の子孫として生まれてくる。おまえも彼に傷を負わせるが、彼は必ずおまえの企みを打ち砕くだろう。」
女の子孫とはどういうことでしょうか?
ずっと後の時代になって、イザヤという預言者を通してこのような神さまの約束が与えられました。

イザヤ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

処女が子どもを宿すことがあれば、それは「女の子孫」の解釈として意味が通じるのではないでしょうか?
そして生まれてくる人は、「インマヌエル」と呼ばれるとイザヤは預言します。
「インマヌエル」とは、「神さまがともにおられる」という意味のことばです。

そして、イザヤの預言があってからさらに700年後、ナザレという小さな村に住む、マリアという少女のもとにガブリエルという天使が現れて、このように告げます。

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(ルカ1:30-31)」

こうして、イエスさまは男性にはよらない「女の子孫」として、この地上に生まれることになります。
人が神さまから離れて罪人となった瞬間から約束されていた救いの約束は、何千年もの時を越えて、このように実現したのです。
だからこそ私たちは、イエスさまが地上に生まれてくださったことを今も喜び、祝い続けているわけです。

悪魔は彼のかかとにかみつき、イエスさまは十字架にかけられて殺されることになります。
ところが、実はそれこそが救いの完成であり、全人類に救いの道が開かれることになりました。
イエスさまの十字架は、悪魔の頭を踏み砕いたのです。

イエスさまが、命をかけて私たちにもたらしたのは、神さまとの関係の回復でした。
私たちに求められているのは、私たちがその関係を精一杯に味わうことだと思います。

皆さんは、神さまとの対話を楽しんでいますか?
神さまともっと話し、そして神さまに従いましょう。
それこそが、わるべき私たちと神さまとの関係であり、神さまはそのことを心から喜ばれるからです。
クリスマスのこの機会、皆さんがその関係を、さらに深めることができますよう、心から祈ります。