マルコ1:40-45 ⑧『イエスさまの心』 2020/03/01 松田健太郎牧師
マルコ 1:40-45
1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
1:42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
1:43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
1:45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。
イエスさまは、カペナウムでたくさんの人たちを癒し、悪霊を追い出しましたが、カペナウムに留まるのではなく、次の町へと進んで行きました。
ガリラヤ地方のたくさんの町を回って、そこで神の国の福音を宣べ伝え、その表れとして人々を癒し、悪霊を追い出したのです。
今回の話は、ガリラヤを回っている間の話だろうと思います。
そこでイエスさま一行は、ツァラアトを患っている人と出会います。
ツァラアトに関してはこれまでもたくさんお話をしてきていると思いますが、ご存じない方たちのためにも、ツァラアトのことからお話していきたいと思います。
① ツァラアト
ツァラアトは、翻訳によっては「重い皮膚病」と書かれている言葉です。
以前は、「らい病」とも訳されていましたが、そのためにらい病患者たちへの差別にも繋がってしまうことにもなりました。
聖書の中で、ツァラアトにかかった人は汚れていると記されているからです。
聖書の中では、ツァラアトに冒された人はその部分が白く変わります。
そして、ツァラアトに冒されると汚れた存在となります。
汚れた人になると、その人に触れた人も汚れた者となってしまうため、みんなから避けられるようになってしまいます。
そしてツァラアトに冒された人は、誰かが間違って触れてしまわないように、誰かが近づくと「汚れている、汚れている」と言わなければならないのです。
それは、何と悲しくて、屈辱的なことでしょう。
ツァラアトが実際にはどのような病なのかということは、よくわかりません。
聖書の中には、壁にツァラアトができた場合のことなどについても書かれているので、少なくともらい病ではありませんね。
「それでは何なのか?」というのはよくわからないのですが、ツァラアトという病が象徴しているのは、罪と、その結果がもたらす深刻な問題です。
罪は、人から人へと伝染する恐ろしさを持っているのです。
② 触れてくださる主
さて、ツァラアトに冒された人が、うわさを聞きつけてイエスさまのもとにやって来て、このように懇願しました。
1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
この人は、イエスさまに「私にも触れてください」とは頼みませんでした。
自分に触れたら、イエスさまも汚れてしまうと思っていたからです。
そして、「イエスさまのお心次第で私は癒される」と信じ、そのことを告げたのです。
その時、そこに驚くべきことが起こります。
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
イエスさまは、ツァラアトによって汚れたこの人に触り、ツァラアトを癒したのです。
イエスさまは、触れなければこの病を癒せなかったのでしょうか?
もちろんそうではありません。
「わたしの心だ。きよくなれ」その言葉だけで十分だったのですが、イエスさまはあえてこの人に触れたのです。
なぜでしょう?
想像してみてください。
この人は長い間、誰にも触れられず、病原菌扱いされるような日々を送ってきました。
友達も、家族も去っていき、孤独になっていきました。
誰かが近づけば、「私は汚れているから近づかないでください」と言わなければならない。
何だか、今の新型コロナウィルスの感染者の扱われ方のようですよね。
人間扱いもされない中で、彼は自尊心を失っていったことと思います。
そして、そんな彼のもとに、イエスさまはやってきて、触れてくださったのです。
イエスさまが触れたとき、彼は癒されました。
イエスさまが触れたのは、体だけではなく、彼の心でもありました。
そして、ツァラアトという病だけでなく、心も癒されたのです。
その喜びは、どれだけ大きかったことでしょうか?
③ 誰にも話さないように気をつけなさい
その後、イエスさまはこの人を厳しく戒めました。
それは、「このことを誰にも言ってはならない」ということです。
イエスさまは、なぜこんなことを言ったのでしょうか?
もっと多くの人に宣伝した方がいいのではないですか?
いくつかの要素があるだろうと思います。
第一に、まず彼がすることは、言いふらすことではなかったということ。
イエスさまはこのように告げています。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
これは、ツァラアトが癒された時にするように、律法に定められていたことでした。
このように祭司に見せて、癒された証明をしてもらうことによって、彼らは通常の生活に戻ることができるようになるのです。
そうして、このことが自然に伝われば十分でした。
人に言いふらす必要はなかったのです。
第二に、イエスさまの目的は癒すことではなかったということです。
当時、ツァラアトは癒されることのない病として知られていました。
罪の汚れを象徴するものですから、罪がきよめられるなどということは、人間の業ではありえないことなのです。
イエスさまがツァラアトまで癒したといううわさは、結局この人が言いふらしてしまったために、あっという間に広がっていきました。
すると、イエスさまに癒してもらうためにもっと多くの人たちが押し寄せることとなったのです。
1:45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。
癒されるために人々は集まってきましたが、だからと言って神の国の福音を聞いたわけではありませんでした。
大切なのは、癒されることではなく、楽になることではなく、天国に行くことでもなく、神さまとの関係の回復です。
神の国がこの世界に来ることです。
私たちが生活する場に、家庭に、職場に、世界中に神さまの支配があることが、神さまの計画なのです。
間違った情報はあっという間に広がっていきます。
マスクやアルコールだけでなく、なぜかトイレットペーパーまで店頭から姿を消すという状況が起こりましたが、間違った情報が蔓延していくのは大きな問題を起こすことになります。
私たちは、間違ったことを広げて、本当の目的を阻害してしまっているということはないでしょうか?
イエスさまが癒し主であることに間違いはありませんが、そこがポイントではありません。
僕は、「信じたら天国に行けます」という話にも同じようなずれがあるように思います。
信じたら天国に行けることには間違いはないですが、そこに集中しすぎて、神さまとの関係はないがしろにされているのではないでしょうか?
良かれと思っていても、それが神さまの目的を阻害してしまうことがあります。
私たちは、本当に大切なことを大切にしているでしょうか?
本当に大切なことを知るためにも、私たちはイエスさまの言葉にいつも耳を傾ける必要があるのです。