マルコ2:1-12 ⑨『あなたの罪は赦された』 2020/03/08 松田健太郎牧師

マルコ 2:1-12
2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
2:3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
2:4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
2:6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

マルコの福音書はやっと2章に入りました。
このペースで行くと、丸一年以上はマルコの福音書からお話ができそうですね。
さて、今日のお話では、イエスさまはガリラヤ周辺に福音を宣べ伝えた後、再びカペナウムに戻ってきました。

カペナウムはペテロを始めとする、イエスさまの弟子たちの故郷です。
イエスさまは集会所で話をし、悪霊を追い出し、たくさんの人たちが癒されました。
それによって、多くの人たちがイエスさまのもとに押し寄せ、イエスさまは一度この町を後にしたのでしたね。
落ち着いたころを見計らってもう一度この町を訪れると、そのことを聞きつけた人たちでイエスさまが滞在していた家は一杯になりました。

この家が誰の家だったかは書かれていませんが、この時点でイエスさまが滞在する場所として考えると、ペテロの家だったかもしれませんね。
イエスさまはそこで、「イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。(マルコ2:2b)」と書かれています。
そんな時に、ちょっとした事件が起こりました。

① 天井を壊して
この時の状況を少し想像してみましょう。
イエスさまが戻ってきたという噂を聞きつけた人たちで、この家はあっという間にいっぱいになってしまいましたが、イエスさまは人々を癒さずにみことばを話しています。
恐らくは、集まって来た人々を押しとどめて、ようやく本当に伝えたいことを話せたという状況だったのでしょう。

そこに、中風の人が連れてこられたのです。
中風というのは、現代で言えば脳卒中による半身麻痺の状態です。
当時は原因不明で、治らない病気として恐れられていました。
この人の場合は重度の麻痺で、ほとんど動くことができない状態だったのだと思います。
ふとんに寝かされたまま4人がかりで連れてこられましたが、人がいっぱいで入ることができません。
そこで彼らは屋上に上がると、屋根をはがし、そこから中風の人を降ろしたというのです。

当時の家のつくりは、屋上にも上がることができるようになっていました。
そして、壁は頑丈に作られていましたが、天井部分は割と簡単に外すことができたのだそうです。
そうは言っても、天井を壊すなんて、迷惑な話ですよね。

この時のイエスさまの気持ちを想像してみてください。
「まずは話を聞けって言ってんじゃん」と思ったとしても不思議はありません。
どんな話をしていたのかはわかりませんが、この騒動で話の腰を折られたことは間違いありません。
やっと話を聴いてくれる状態になったと思ったらこれですから、たまったものではありませんよね。

でも、イエスさまは怒りませんでした。
それは、この人たちの中に信仰を見たからです。
そして、このように言ったのです。

2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

私たちの中には、これほどまでに求める心があるでしょうか?
屋根を壊す労力を使ってもイエスさまを求める心はあるでしょうか?
他人の家の屋根を壊し、嫌われたり、怒られても求める覚悟があるでしょうか?
そして、自分のためではなく、他人のためにここまでするという愛はあるでしょうか?
そのような信仰は、イエスさまの心さえも動かすのです。

② あなたの罪は赦された
さて、中風を癒すために降ろされてきた人に対してイエスさまが言った言葉は、こんな言葉でしたね。
「子よ、あなたの罪は赦された。」
癒してもらうために降ろされてきたのに、「あなたの罪は赦された」という言葉はズレていると思いませんか?
イエスさまはなぜ、このように言ったのでしょうか?

それは、あらゆる問題の本質にあるのは、罪の問題だったからです。
例え中風が癒されても、本質的な問題が解決してなければ意味はありません。
問題の根っこにある「罪」という問題が解決されない限り、本当に生きる喜びを味わうことはできないのです。

創造してくださった神さまに背き、自分自身を神にしようとする罪。
その罪を贖い、罪の赦しを与えるために、イエスさまは来ました。
イエスさまが伝える必要があったのは、あくまでも神の国の福音だったのです。

この人が降ろされてくるときにも、イエスさまはそういう話をしていたのでしょうね。
その話の流れの中で、この人が降ろされてきたので、「そう、あなたの罪も赦されたのです」と、イエスさまは言ったのだろうと思います。
だから、周りの人たちもこの言葉にちゃんと反応していますね。

③ 罪を赦す権威を持っていることを教えるために
しかし、その反応は必ずしもいい反応だけではありませんでした。

2:6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」

イエスさまの言葉は、ある意味では律法学者からこの思いを引き出すためだったのかもしれません。
これは、律法学者としては当然と言えば当然の反応だったと思います。
確かに、罪を赦すことができるのは神さまだけです。
イエスさまが神ではなかったとしたら、神さまにしかできないことを言っているのですから、それは冒涜以外のなにものでもありません。
この時点での律法学者のこの思いは、無理もない事でしょう。

イエスさまは、このように続けます。

2:8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

皆さんはどう思いますか?
「あなたの罪は赦された」と言葉で言うのと、この人に「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのとでは、どちらが簡単だと思いますか?
「罪は赦された」と言うことの方が簡単ですよね。
本当に罪が赦されたかどうかなんて確認しようがないのですから。
しかし、「起きて歩け」と言ったら、その言葉には行動が求められますから、その言葉に力だがあるかどうかはすぐにわかります。

そしてイエスさまは、「罪は赦された」というその言葉が本当であることを証明するために、この中風の人に言います。

2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

これは、イエスさまの優しさでもあると思うのです。
ここまでしてイエスさまのもとに来た中風の人を、そのままでは帰さない。
癒すことが本業ではないのだけれど、ちゃんと癒してあげるという優しさです。
イエスさまは、私たちが求めるその想いに応えてくださる方なのです。

私たちも、この中風の人とその友人たちのように、イエスさまを本気で信じ、本気で求めたいですね。
イエスさまは、それだけの価値のある方です。
そして、その期待に必ず応えてくださる方なのです。
祈りましょう。