マルコ2:13-17 ⑩『罪人を招く救い主』 2020/03/22 松田健太郎牧師

マルコ 2:13-17
2:13 イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
2:17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

今日のところで、イエスさまはまた新しい弟子と出会います。
おもしろいのは、イエスさまが弟子と出会うのは、いつもガリラヤ湖の岸辺だということですね。
全部の弟子との出会いについて書かれているわけではないので分からない部分もありますが、これまで5人の弟子とガリラヤ湖の岸辺で出会っているのです。
今回はレビという人が出てきますが、これはマタイのことですね。
マタイとの出会いでは、どんなことが起こったでしょうか?

① 取税人
さてイエスさまは、収税所に座っていたこのレビと言う人に声を掛けます。
「わたしについてきなさい」と言うのです。
イエスさまは、なぜレビに「ついてきなさい」と言ったのでしょうか?
レビが信仰熱心でできるヤツだからでしょうか?
そうではないんですね。

レビは、取税人と呼ばれる仕事をしている人でした。
取税人というのは税金を徴収する人ですから、官僚なんじゃないかと思いますが、当時のイスラエルでは少し事情が違います。
当時の取税人の立場を理解するために、少し政治的な背景について話しておきましょう。

この当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあったのです。
それなりの自治権は与えられていたので、ユダヤの王ヘロデはある程度の権威を持つことができましたが、ユダヤ国内にはローマ総督がもう一つの権威として配置されていました。
ローマ総督には、具体的にどのような権威を与えられていたかと言うと、属州における軍事統括、司法(法律を定めて裁判をすること)、そして課税と財政運営という重荷3つの権威です。

だからユダヤには、ユダヤ人の兵隊ではなくローマ帝国に兵士たちが取り仕切っていましたし、裁判にかけられる時には王のもとにではなく総督のところに連れていかれました。
そしてユダヤ人たちは、自分たちの国に対してだけでなく、ローマ帝国にも税金を支払わなければならない立場だったのです。
取税人というのは、そのローマ帝国のための税金を徴収する人たちです。
ユダヤ人からしてみれば、裏切り者というわけです。

しかも、ローマ帝国にどれだけの税金が徴収されているかということははっきりと教えられていませんでした。
ローマに上納する額は決められていたと思いますが、徴収する額に関しては定められていなかったので、取税人は余分に徴収して、その差額を懐に入れます。
それが取税人としての報酬となっていたのです。

だから取税人と言えば血も涙もない輩で、裏切り者です。
お金持ちにはなれますが、嫌われ者だったのです。

② パリサイ派のユダヤ教徒
声をかけられたレビは、イエスさまの招きに応え、イエスさまに従うものとなりました。
その後、イエスさまはレビの家に行って一緒に食事をすることになります。
するとそこには、弟子たちを始め、イエスさまについてきた人たちがどんどん集まってきました。

2:15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。

取税人であるレビはお金持ちですから、たくさんの人たちが入ることができます。
そこには、レビの仲間である取税人の姿もありましたから、大勢の人々がレビの家に集まることになりました。

その人だかりを眺める人たちの中に、パリサイ派のユダヤ教徒がいました。
パリサイ派というのは、とても信仰熱心でルールもしっかり守る、立派な宗教者たちです。
聖書には律法と言って、宗教的に守るべきことがたくさん書かれているのですが、パリサイ派の人々はそれを全て守り、正しい人として生きることを信条としていました。

では、そういう人たちはさぞみんなから尊敬されるのかと言うと、必ずしもそうは言いきれない部分もあります。
そのような生き方をしている人たちにありがちなことですが、パリサイ派の人たちはいつも上から目線なんですね。
そして、律法を守っていない人たちを見ては正論を言って、ダメ出しをします。
皆さんの周りにも、そういうタイプの人たちがいませんか?
もしかしたら、自分自身がそういうタイプだと思う方もいらっしゃるかもしれません。
クリスチャンの中にもそういうタイプの人は少なくありませんよね。

パリサイ派の人は、最近話題になっているイエスという教師が罪人や取税人と一緒にいるのを見て、弟子たちに言うわけです。
「あんたたちの師匠は、どうして罪びとや取税人と一緒いるんだ? そんなやつらと一緒にいたら自分も汚れてしまうのを知らないのか?」
その言葉は心配しているから言っているのではありません。
どこかバカにしていたり、非難する言葉として弟子たちに向けられていたのです。
それを聞いたイエスさまは。このように言いました。

2:17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

③ 罪人を招くため
イエスさまの言った言葉は、考えさせられますね。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

これはどういう意味の言葉でしょうか?
イエスさまは弱い人、病気の人、罪深い人を助けるために来たので、丈夫な人や正しい人のために来たのではないということですよね?
では、イエスさまは病気で弱い人たちや、取税人のように罪深い人たちのために来たのであって、パリサイ派の人たちのように正しい人たちのために来たのではないということが言いたいのでしょうか?

そうではありません。
実際には、パリサイ派の人たちが正しい人たちということではないからです。
人は、全て神さまから離れて罪人となってしまいました。
神さまの目から見て、正しい人なんて誰もいないのです。
そこにあるのは、自分が罪人だと自覚している人と、自覚していない人です。

私たちがお医者さんのところに行くのはどんな時でしょうか?
自分が病気だと思ったとき、どうも調子が悪いときではないでしょうか?
しかし、自分には何も問題がないと思っている人は決してお医者さんには行きません。
そこがポイントなのです。

私たちはみんな、神さまから離れた状態で生まれてきて、そのまま生活しています。
クリスチャンの家庭に生まれてきたとしても、生まれてからずっと神さまに聞き、従って生きている人は誰もいません。
私たちはみんな罪人であり、イエスさまが与えて下さる救いを必要としているのです。
イエスさまによって罪が赦され、贖われ、新しい命を受け、神さまとの関係が回復させられる必要があります。

しかし、「自分は何も問題がない、自分はいつも正しく、良いことをしている」と思っている人は、「救い」を求めようとしないでしょう。
自分の力で得られるものだけを得て、それで満足します。

一方で、自分が神さまから離れた罪人だということを自覚している人は、助けを求めます。
求めるから、イエスさまがその人を助けることができる。
そして求めるなら、与えられるのです。

私たちはどうでしょうか?
私たちは、どうしようもない自分を自覚し、神さまに助けを求めているでしょうか?
イエスさまは言います。

マタイ 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

求めましょう。
求めるならば、与えられるのです。