第1コリント15:12-14 イースター2020『復活を信じるなら』 2020/04/12 松田健太郎牧師
第1コリント15:12-14
15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
今日は復活祭ですね。
2000年前、イエスさまが十字架にかかり、命を捧げて下さったことによって、私たちの罪は贖われました。
しかしイエスさまが死んでから3日目によみがえった。
そのイエスさまの復活を祝うのが、イースターです。
私たちクリスチャンは、2000年前にイエスさまの復活したことを今も喜び、祝うのです。
イエスさまの復活は、私たちにとってどのような意味を持っているのでしょう?
第一に、イエスさまの復活は、罪の赦しを意味しています。
もともと死とは、罪によって神さまとの関係が断絶した結果与えられたものでした。
死からよみがえるということは、罪が赦され、神さまとの関係が回復したことを意味しているのです。
第二に、イエスさまの復活は、永遠の命を表しています。
イエスさまが復活したように、やがて私たちも復活することが約束されています。
私たちは、その永遠の時を神さまと共に過ごすか、神さまと永遠に断絶されるかを選ぶことができます。
その選択が与えられている所に、神さまの愛があるのです。
そして第三に、イエスさまの復活は、私たちが新しい命に生きることを意味しています。
イエスさまの復活を信じ、罪の赦しを受け取って、永遠の時を神さまと共に生きるという選択をすることは、私たちが新しい人生を歩み始めることを意味しています。
その人生は、罪の束縛から解放され、いつでも神さまと共に生きる人生です。
私たちはいつも喜び、神さまと対話し、神さまが命じることに従うのです。
私たちは、このことを本当に信じているでしょうか?
知っていることと、信じていることの間には大きな差があります。
そしてさらに、信じていることと、実践していることの間にも大きな差があります。
この場合の実践とは、復活を信じていることによって生き方そのものが変わるということです。
復活信仰を実践している人たちには、どのようなことが起こるでしょう?
聖書の中には、今から4000年も前に生きたアブラハムの話が記されています。
アブラハムには、長い年月待ってやっと与えられた念願の後継ぎ、イサクがいました。
イサクは神さまが約束した祝福であり、アブラハムにとってこれ以上ないほど尊くて、大きな喜びでした。
ところがある時、神さまはアブラハムに恐ろしいことを命じます。
イサクを生贄として捧げなさいと言うのです。
この時のアブラハムの思いが、へブル人への手紙の中に記されています。
へブル 11:17 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
11:18 神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。
アブラハムがイサクを捧げる信仰を持てたのは、復活信仰があったからでした。
信仰は、私たちの生き方を変えます。
その生き方が、神さまの祝福を引き寄せるのです。
私たちの生き方はどのように変わったでしょう?
「どうせ復活するんだから新型コロナなんて怖くないや~」ということではありません。
復活を信じるということと、命を軽く見たり、粗末にすることは同じではないのです。
アブラハムは、イサクの命を軽く見たのでも、「死んでも構わない」と思ったのでもないということです。
一人一人の命は重く、尊いものです。
ここで大切なのは、アブラハムが恐れずに従ったということ…。
いや、もしかしたら恐れたかもしれませんが、それでも神さまの約束を信頼して、従ったということです。
そこに、復活信仰の重要なポイントがあります。
復活を信じるとき、私たちは神さまが命じるどんなことにでも、従うことができるのです。
旧約聖書の中の復活信仰について、もうひとつ紹介しましょう。
エゼキエル書の中に記されているこのことばです。
エゼキエル37:1 【主】の御手が私の上にあった。私は【主】の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
37:3 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「【神】、主よ、あなたがよくご存じです。」
37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、【主】のことばを聞け。
37:5 【神】である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37:6 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが【主】であることを知る。』」
これは、神さまがエゼキエルに見せた幻でした。
その中でエゼキエルは、神さまが干からびた骨からも、神さま命を与えることができるという力強い復活の約束です。
私たちの目には、完全に死んでしまってよみがえることがないと思うものにも、神さまはもう一度命を吹き込むことができます。
私たちの神さまは創造主であり、全ての生物に命を与えた方だからです。
生物学的な命だけではありません。
神さまは、ボロボロになり、枯れ果てて、死んだようになった人々の心にも命を与えることができます。
死んだようになっている日本の教会にも命を与えることができます。
1000年以上も前に滅んで、干からびた骨のようになっていたイスラエルを復活させた方、それが神さまなのですから。
もう一度皆さんにお尋ねします。
皆さんは、イエスさまの復活を信じますか?
復活がなかったとしたら、私たちが信じる福音とは、単なる嘘っぱちで空しいものです。
奇跡などはどこにもなく、私たちは神さまから見捨てられ、単に滅びゆくものでしかありません。
キリスト教は、単にたくさんある宗教の中の一つでしかないでしょう。
イエスさまの復活を思い、祝うこのイースターの日、復活の力をもう一度思い出し、心から信じるときにしていただきたいのです。
祈りましょう。