マルコ2:23-28 ⑫『誰のためのルールですか?』 2020/04/19 松田健太郎牧師

マルコ 2:23-28
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
2:26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

さて、安息日の時に、イエスさまの弟子たちは畑になっている穂を摘みながら歩いていました。
それを見たパリサイ派の人たちは、それを見て彼らを咎めたというのが今回の話です。

私たちの感覚だと、ここで問題とされるのは人の畑の穂を摘みながら歩いていることのように思いますが、そうではありませんでした。
この辺りのことは文化的背景の説明が必要になると思いますので少し説明したいと思います。

他人の畑の穂を摘んで食べることに関して、律法の中ではこのような規定がありました。

申命記 23:25 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。

これは、貧しい人たちを救済するための律法で、大掛かりな収穫さえしなければ、他の家の畑から穂を摘んでもかまわないのです。
パリサイ派の人々がモノ申してきたのは、他人の畑から取って食べているということではなくて、安息日を守っていないということに関してだったのです。

安息日というのは、イスラエルが奴隷となっていたエジプトから脱出した後に与えられた律法の中で定められた制度でした。
神さまが世界を創造された時、7日目に休んだので、7日を1週間という単位でくくり、7日目を安息の日として定めたのです。
1週間は日曜日から始まりますから、7日目は土曜日ということになりますね。

ユダヤ人たちは、毎週土曜日を安息の日として労働はせず、神さまに捧げる日とされたのです。
やがて安息日は、長い歴史の中で律法学者によって吟味されていくようになります。
安息日には「あらゆる労働をしてはならない」と定められていましたから、「では、どこからどこまでが労働なのか」という議論がされ、厳密な条件が定められるようになっていきました。
そして、安息日に「労働」の条件を満たすことをすることは、厳しく戒められるようになっていったのです。

イエスさまと弟子たちがしていた、穂を摘むという行動は、農作業とみなされ、安息日を破っていることとみなされました。
時々、こういうめんどくさい人っていますよね。
言いがかりといえば言いがかりなのですが、神さまに背いていると言われれば黙っているわけにはいきません。
イエスさまは、旧約聖書の中にある出来事を紹介して、パリサイ派の人々を黙らせます。

2:25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
2:26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」

これは、イエスさまが生まれる1000年も前、ダビデが王になる前に起こった出来事です。
サウル王から追われるようにして逃げてきたダビデが身を隠したのは、祭司アヒメレクのところでした。
ダビデは空腹を覚えて、アヒメレクに何か食べ物がないか尋ねます。
するとそこには、捧げものとして祭司だけしか食べることができない聖別のパンしかありませんでした。
しかしアヒメレクは、本当は祭司しか食べることが許されていないパンをダビデに与えました。
そのことは、後の時代にも美談として伝えられていることなのです。
続けてイエスさまは、このように言います。

2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。

確かに神さまは、ユダヤ人たちに律法を与えました。
それは秩序を与えるためであり、弱い人々を守るためでした。

ユダヤ人たちがもう奴隷のように働かなくても済むように、7日の内の1日は労働をせず、休むようにと定められたのが安息日です。
神さまが人々を型にはめて、不自由な生活を強いるために定めたルールではないのです。

安息日という律法は人間を守るために設けられたルールだったのに、いつの間にか人間がルールに縛られて、ルールのための人間みたいになってしまっている。
それは神さまが求めていることではないということです。

さて、日本人はこの言葉、すごく耳が痛いんじゃないかと僕は思っています。
日本人は「ルールはルールだ」というのが大好きですよね。
例えば、車がいなくても信号をちゃんと守る人が多いですよね。
決められたことは、誰も観ていなくても守らないと気持ちが割るという人が日本人には多いと思います。

勘違いをしないでいただきたいのですが、それは日本人の良い部分でもあります。
このような秩序が日本を成功に導いてきたし、日本人は今でも世界から認められるレベルの製品を造る技術力があったりもします。

一方で、そのことが問題になることも少なくありません。
新型コロナウィルスがこんな状態になっても、ほとんどの人たちがリーモーロワ―クに切り替えることができません。
仕事そのものは会社にいなくてもできるのに、ハンコをもらうためだけに会社に行かなければならない、いや会社にいなければならないと聞きます。

一度決めたルールをなかなか変えることができないという性質を、私たちは持ってしまっているようです。
だから同じようなことは、政治の世界でも、教育の世界でも、そしてキリスト教の中にも起こっています。

ルールを守ることができるというモラルの高さは、とても大切なことです。
しかし、変わらなければならない変革の時には、私たちはもう一度そのルールを見直してみる必要があるのかもしれません。

大切なのは、いつも表層的なことではなく、物事の本質だからです。
「そのルールは誰のためのものであり、何のためのものか?」ということをもう一度考えてみましょう。
私たちが本当に守るべきものは、ルールでしょうか?
それとも、人でしょうか?

何よりも大切なのは、いつでも「人」であり、「神さま」だと、イエスさまは教えています。
私たちは何を大切にしていますか?
もう一度、自分が大切にしているものの本質を見直してみてはどうでしょうか?

さて、この言葉には、もうひとつ希望があります。
それは、最後のこの言葉です。

2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

もし、イエスさまも安息を守らなければならないとしたら、安息日は誰も癒されない、心が満たされない、誰も救われないということになるかもしれません。
7日目に神さまが休まれたということの意味をもう一度考えてみる必要があるのだと思います。
神さまが休息に入られたということは、神さまが何もしなくなったということではありません。
神さまは創造の業を終えられたということであって、神さまとしての活動を何もしなくなったのではないのです。

イエスさまは、いつでも、どんな時でも、私たちと共にいてくださるということ。
私たちを癒し、慰め、救うことを休まれない方だということはありがたいことですね。
私たちはその喜びで満たされ、その良い知らせを他の人たちにも伝えていきましょう。