マルコ3:1-6 ⑬『かたくなな心』 2020/04/26 松田健太郎牧師

マルコ 3:1-6
3:1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

今日の話は、前回の話と少し重なっている部分がありますので、先週はどんなお話だったかということを思い出しながら聴いてくださるといいのではないかと思います。
少し復習をしながら、今日の話を進めていきましょう。

さて、イエスさまは再び会堂に戻ってこられました。
「会堂」というのがどういう場所だったか、みなさんは覚えていらっしゃいますか?
会堂というのは、シナゴーグと言ってユダヤ教の集会所でしたね。
教会のように宗教的な話をするためにも使われますが、政治的、教育的な機関としても機能していました。
イエスさまは、神の国の福音を伝えるためにその場所に戻ってこられたのです。

その日は安息日だったと書かれています。
恐らく、先週の話から少なくても1週間は経っていたでしょう。
そこには、片手の萎えた人が連れてこられていました。
「萎えた」というのは、使うことができない状態ということですね。
片手に力が入らない、あるいは動かすことができない人がいて、イエスさまによって癒されるのを待っていました。

しかし、そこにいたのはその人だけではなかったのです。
その人の周りには、イエスさまが何をするかじっと見ている人たちがいたのです。
何のためにその人たちは観に来ていたのでしょう?
それは、イエスさまが律法を破って安息日に人を癒すかどうかを確認するためでした。
そして彼らは、安息日にこの人を癒したら、律法を破った罪でイエスを訴えてやろうと待ち構えていたのです。
つまりこれは、イエスさまを罠にかけるために仕組まれていたことだったということです。

イエスさまはそれを知った上で、片手の萎えた人を真ん中に立たせて、このように言いました。

3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。

ここで先週の話を思い出してみましょう。
律法は誰のためのものでしたか
そして、安息日は何のためのものだったでしょうか?
人を縛り付け、行動を制限し、不自由を強いるために与えられたものでしょうか?
そうではありませんね。
人を休ませ、喜びと楽しみ、希望をもたらすために与えられたのが安息日だったはずです。
神さまが、安息日に求めていた人々の行動は、「何もしないこと」ではなく、「神さまと共に過ごすこと」です。

ここでイエスさまは、「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」と聞いています。
これは、安息日にイエスさまが人を癒すということが正しいかどうかというだけのことではありません。
イエスさまがここでしようとしていることは、神さまの御心にかなう、人を癒す行いです。
一方、この時それを見ている人々の心にあったことは、イエスさまを訴え、頃走路することだったわけです。

確かに、彼らはイエスさまを殺すという行為をこの時には行いませんでした。
しかし、神さまの御心にかなうことを願い、行動したイエスさまに対して、彼らは神さまが悲しむ、人を――それも神の子を殺すということを考えていたのです。
安息日――神さまと共に過ごす日――にふさわしいことだと思いますか?
これは、誰が考えても答えは明確だと思います。

しかし、ここに集まった人たちは黙ったままで、イエスさまのその問いかけに答えようとしませんでした。
第一に、彼らの目的は、神さまの御心を知ることではなく、イエスさまを罠にかけることだったからです。
第二に、イエスさまが言っていることが図星だったからだと思います。
実は「うっ」となっていたのですが、何か言えばボロが出るので、何も言えない。
それも全部、イエスさまにはオミトオシでした。

3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。

イエスさまがすごいなぁと思うのは、怒り、彼らの頑なさを嘆き悲しみながらも、その人を癒すということです。
イエスさまはこの人を癒す必要があったのかと言えば、全くありません。
そしてどう考えても、自分の立場を悪くしてしまうはずですが、それでもイエスさまは、この人を癒したのです。
この人は、イエスさまを訴えようとしていた人々とグルだったかもしれません。
例えそうだったとしても、イエスさまはこの人を癒したのでしょう。
なぜなら、それがイエスさまの生き方だからです。

私たちが素晴らしい人間だからではなく、罪人である私たちのために命を投げ出し、罪を贖ってくださったイエスさま。
私たちがたったひとりでも、イエスさまは十字架にかかってくださる方なのです。

しかし悲しいのは、イエスさまを罠にかけたこの人々は、何を見ても、どんなことが伝えられても、イエスさまを受け入れないということです。
私たちに自由意思を与えた神さまは、私たちを無理やり救うことができません。
私たちがイエスさまを受け入れ、救いを受け取らなければ、私たちは決して救われるということがありません。

私たちの心はどうでしょうか?
私たちの中に、彼らのような頑なな心はないでしょうか?
初めから偏見をもって聖書を読んではいないでしょうか?
神さまは私たちを束縛すると勝手に思い込んでしまっては内々でしょうか?
私たちが素直にイエスさまと向き合い、受け入れる心を持つなら、私たちはちゃんと神さまの心を知り、受け取ることができます。
いつだったかイエスさまが言ったように、私たちは幼子のような心でイエスさまのもとに行く必要があるのです。
祈りましょう。

ディスカッション:

1. イエスさまのように偏見の目で見られたことはありますか?
2. 自分の中で、「これはこういうものだ」「こうに違いない」と決めつけてしまっていることはありませんか?
3. 互いのために祈りましょう