マルコ3:20-30 ⑮『聖霊を冒涜するとは?』 2020/05/17 松田健太郎牧師
マルコ 3:20-30
3:20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
3:21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
3:25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
3:26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
3:27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
3:29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
今回の聖書箇所には大切なポイントがいくつかあるのだと思いますが、一番難しいところに焦点を置いて考えてみたいと思います。
それは、
3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
3:29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
というのは、どういう意味なんだろうということです。
ことの発端は、イエスさまが悪霊を追い出していた時の、律法学者たちの反応から始まりました。
イエスさまが命じると悪霊が逃げていくのを見て、「これは悪魔の力によるのだ」と言い始めたのです。
それに対するイエスさまの反論はこうでした。
悪霊が追い出されたら勢力が弱くなるのですから、悪霊が悪霊を追い出すというのは意味がなりたちません。
悪霊が、何か良からぬ目的をもって、追い出されたふりをしているということならあるかもしれません。
でもその場合には、少しすれば悪霊は戻ってきて、さらに大きな力を手にするでしょう。
しかし、イエスさまに追い出された悪霊は戻ってくることはありません。
それが悪魔の働きであるという主張は、全く非論理的な主張なのです。
では、イエスさまは何のために悪霊を追い出しているのでしょう?
イエスさまはこのように説明します。
3:27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
ここで言う「強い者」は、聖書の中でサタンを表す言葉なんだそうです。
つまりイエスさまは、人々を取り返すために、まず悪魔、悪霊の力を縛り上げ、追い出しているのだということです。
シンプルだし、イエスさまの目的を考えるなら、当たり前の話です。
そもそも、律法学者たちはどうして、「イエスは悪霊の力で悪霊を追い出しているのだ」という非論理的なことを言っていたのでしょうか?
それは、何とかイエスを貶めて、影響力を小さくし、「自分たちの力」を取り戻したいと思っていたからです。
神さまを第一にして考えているなら、誰を通して神さまの業(わざ)が働いたとしても、その神さまの業に感謝し、喜ぶことができたでしょう。
しかし、同期の部分から歪んでいた彼らは、目の前で起こっている素晴らしい出来事を素直に認め、受け取ることができなかったのです。
普通に考えればわかる理屈も、見えなくなり、分からなくなる。
プライドや偏見は恐ろしいですね。
さて次に、聖霊とは何かということを復習しておきましょう。
聖霊は、三位一体の神さまの1人格で、シンプルに言うと、私たちの心に直接働きかけ、神さまの意志を伝えてくれる存在です。
神さまの声を聞くとか、神さまが語り掛けてくださるというのですが、大体は直接の肉声が鼓膜を振動させるわけではありません。
時にはひらめきだったり、良心という形でだったり、聖書の言葉を通してだったり、誰かの話や、偶然何かが起こるなど、様々な方法で語り掛けてくださいます。
そこに働いておられるのが聖霊ですね。
イエスさまは、神を冒涜しても赦されると言っていますね。
僕たちは、悔い改めるならどんな罪でも赦されます。
例え、神さまを否定したり、冒涜するようなことを言ったとしても、悔い改めて神さまに立ち返るなら、赦されるというのです。
すごいですよね。
他の福音書では、子なるイエスさまを冒涜することも赦されると書かれています。
しかし、聖霊を冒涜したら赦されません。
不思議ですね。
三位一体の神さまで、父なる神さまも、子なるイエスさまもいいのに、聖霊だけがダメなのはなぜなのでしょう?
それは、聖霊を冒涜するというのは、聖霊の促しに耳を傾けないということでもあるからです。
僕たちが神さまの心を知るのは、聖霊によりますから、その聖霊の声を聞かなかったり、従おうとしないなら、その人は神さまの心を知ることができません。
それだけではありません。
罪を認めさせ、悔い改めに導き、さらにはイエスさまを受け入れ、救い主と信じる信仰を与えてくれるのも聖霊の働きです。
パウロはこのように言っている通りです。
1コリント 12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
つまり、聖霊を否んで冒涜するなら、その人は救われない…というよりも、自分で救いから離れることになってしまうのです。
この時律法学者たちは、自分の宗教的な力を求め、自らのプライドや偏見にこだわったために、聖霊の声に耳を閉ざしてしまいました。
それどころか、神さまの御業を悪魔の力と呼び、それを他の人たちにも教えたのです。
ここまで来てしまったら、この人が自らの誤りを受け入れて、キリストに立ち返るということはかなり難しくなります。
さて、結論です。
私たちは、心のうちに語り掛けてくださる神さまの声、つまり聖霊を冒涜してはならない。
それを気のせいとか、思い込みとか、悪魔のせいにしてしまうなら、私たちは神さまに繋がることはなくなってしまいます。
そのためには、真理を求めること。
そして、素直な心でいることが大切だと思います。
そこに余計な力が働いていなければ、人は自ずとイエスさまに惹かれ、神さまに導かれます。
つまり、誰かに福音を伝えるために私たちができるのは、「余計な力」を取り除くことなのだと思います。
愛する人たちに、福音が届きます様に。
祈りましょう。