使徒の働き2:1-11 『ペンテコステの日に起こったこと』 2020/05/31 けんたろ牧師

 

使徒の働き2:1-11
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」

緊急事態宣言が解除され、今日からまた教会堂に来ることができるようになり、感謝ですね。
それがペンテコステの日と重なったというのも、面白いタイミングなのかもしれません。

ペンテコステというと、キリスト教では聖霊降臨の日として覚えられていることが多いですが、本来はユダヤ教のお祭りのひとつで、五旬節とか、7週の祭りとも呼ばれています。
今日は、旧約聖書の中で記された、お祭りとしてのペンテコステを学ぶことによって、ペンテコステの目的と本来の意味を見直す機会にしてみましょう。

五旬節というお祭りは、レビ記の中で記されています。

レビ記 23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。
23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】に献げる。
23:17 あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物としてのパンとして持って行く。これは【主】への初物である。

お祭りの記述はもう少し続くのですが、最も大切なことはこの部分に記されていますので、今回はここだけに焦点を当てたいと思います。
興味のある方は、続きも読んでみてください。
ここでのポイントは2つです。

1. お祭りにパン種を入れたパンが用いられていること
2. ふたつのパンが捧げられること
 
聖書の全体を通して語られていることですが、パン種とは多くの場合「罪」を象徴しているものです。
ここでは過ぎ越しの時に使う種なしパンはイエスさまを表していましたが、種を入れて焼いたパンは、罪人である私たちのことを表しています。
そしてこのお祭りの中では、私たちが罪人であるというありのままの状態で、自分自身を神さまに捧げることを意味しています。

それでは、ふたつのパンは何を意味しているでしょうか?
これは、ユダヤ人と異邦人を表すものです。
聖書の中では、ユダヤ人と異邦人は分けたものとして用いられるのですが、このペンテコステの祭りの時には、ユダヤ人と異邦人が罪人としてのありのままの状態で、分け隔てなく捧げられるのです。
こうして、象徴的に祝われていたペンテコステの真理は、イエスさまが天に帰られた後のペンテコステの日に、現実のものとなります。

そのとき、弟子たちの口から出てきた異言とは、その場に居合わせた外国人たちの心にも伝わる、外国のことばでした。
この時エルサレムでは、ユダヤ人たちだけでなく多くの外国人たちも福音を受け取り、救われたのです。
ペンテコステは、福音がユダヤ人だけのものではなく、異邦人のためのものでもあることが明らかにされる日だったのです。

エペソ 2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

2:18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

ペンテコステという言葉は、異言という特別な言葉を始めとして、何だか「特別な力を受ける日」というようなイメージばかりが先行してしまいがちですが、それは目的のための奇蹟でしかありません。
聖霊がユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく降り、一つとされるということが、ペンテコステの日に起こった最大の奇蹟であり、真理なのです。

ペンテコステと言えば、教会の始まりの時としても知られていますね。
これも誤解してしまいがちですが、教会とは建物のことでなければ、宗教組織のことでもありません。
キリストを頭とする一つの体であり、血の繋がりがなくても主にあって繋がる一つの家族が教会です。
それは、私たちが規則や文化、伝統によって一つになろうとすることではなく、聖霊によって一つとされることで実現します。
そのためには、私たち一人一人が自分の思いや願望、肉の努力を安息させて、神さまの支配の中で生きることが不可欠です。
私たちは、それを「聖霊の満たし」と呼ぶのです。

緊急事態宣言が解かれてからも、COVID-19の脅威はなくなっていませんから、私たちはまだしばらくの間、離れた場所で集まらなければなりません。
しかし、そんな時だからこそ、私たちは自分のすべてを神さまに捧げて、聖霊に満たされ、一つとなる必要があるのだと思います。
どうかひとりひとりが、自らを捧げ、聖霊による新しい命に生きられますように。
祈りましょう。